大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和48年(あ)2212号 決定

本籍

愛知県岡崎市花崗町一丁目一七番地

住居

静岡県浜名郡舞阪町舞阪三七九一番地

無職

小幡萬夫

明治四四年四月二六日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和四八年九日一二日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立があったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

被告人本人及び弁護人山本稜威雄の各上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であって、いずれも、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。また、記録を調べても、同法四一一条を適用すべきものとは認められない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 坂本吉勝 裁判官 関根小郷 裁判官 天野武一 裁判官 江里口清雄 裁判官 高辻正已)

昭和四八年一一月二二日

上告趣意書

被告人 小幡萬夫

第一 法令の解釈適用関係

一、商品取引清算益はそもそも「所得」になじまざる利益

1 判示要旨

判示は「商品先物取引は、一般顧客の場合、確実な成算のある取引ではなく、商否取引清算益は偶発的性質であり、継続して相場を張った場合に必しも毎年継続して清算益が生ずるとは限らない」(1枚目裏十行~2枚目裏四行要約)と認め乍ら、然かも「清算益は課税所得を溝成する」(2枚目裏五行~七行要約)となし、その理由を現行税法上の「所得」とは

“いやしくも収支計算上、納税義務者各人に発生帰属した経済的利益のすべて”

而して「課税所得」とは

“所得税法其の他の法令上明らかに非課税とする趣旨が規定されていない所得”

と解し、(2枚目裏八行~4枚目十行要約)一般顧客の商品先物取引による商品取引清算益は、顧客の収得した金銭的利益であり、之れを非課税とする規定はないから課税所得に当ると判断されたり(4枚目末行~同裏六行要約)

而して、被告人側の主張である「本取引は収益の確率なく、一時的には利益を挙げても、二三年取引を継続すれば、結果的には赤字となるから、その利益は実質的には仮り受金的性質のものであって、一暦年間の所得をとらえて課税する所得法上の「所得」にはなじまないものであり、商品取引清算益に課税することは租税負担の公平原則に反し、実質的には、所得なきところにも課税することゝなり、所得税制の根本原理にもとる」に対しては

“相場変動の見込が的中すれば利益となるわけで、長期間これを継続して行なった場合に必ず損失をまねくとも限らない”

となして、仮り受金的性質を否定し、その主張は“独自の見解”の用語にて退け(5枚目四行~同裏二行要約)

又被告人側の主張である「有価証券(株式)の信用取引と取引態様を同じくしている以上は商品取引清算益も非課税が当然」に対しては、

“有価証券譲渡所得の原則的非課税は国民大衆に対する有価証券市場への投資を奨励する政策上の理由からである”

と解して「当然」とは認めず、論拠なしと判示さる(5枚目裏三行~同八行要約)

2 問題の要所

法律解釈の錯誤と抗弁する根拠は、後記第三の「商品取引所取引益の課税不可論」の説明が前提となっているが、慈では左の如し

(イ) 「所得」の意味は判示通りに“いやしくも収支計算上納税義務者各人に発生帰属した経済的利益”であり、商品取引清算益は金銭的利益である。

然れども、経済的利益が発生したりと雖も、各人に経済的利益が帰属して始めて「所得」となることに留意すべきである。

而して、所得税制が収支計算をするに必要とする単位期間を暦年に置くからには、現行所得税法上の「所得」とは

『一年の収支計算上、納税義務者各人に発生した経済的利益のすべてにして、且つ、それが各人に帰属したもの』

が該当すると確信する。

商品取引清算益は経済的利益であるが、一年間の収支計算から、その発生ありとも、帰属は解除条件付であり、商品先物取引が不規則的変化の価格上下の二途現象に因って、 々解除条件が実現して各人の帰属は解消する。即ち各人に帰属未確定なるが故に、その年に於て発生した経済的利益が、実質的には仮り受金と等しく、茲に於て、「所得」になじまず、とするものである。

判示は“商品の先物取引が確実な成算のない取引であるといっても、相場変動の見込みが的中すれば利益となるわけで、長期間これを継続して行った場合に必ず損失をまねくとも限らない”とするのみにて、「所得」に付ての重大なる帰属確定の要件は判断されず、経済的利益の発生面に触れたるに止まっているにも不拘、被告人側を“全く独自の見解”として退けたのは、誤った「所得」解釈適用である。就中“的中すれば利益となるわけで長期間の継続売買は必しも損とはならず”の意の思考は、的中すれば利益(+)然らざれば利益を得ず(0)との認識が前提であり、本取引が的中すれば利益(+)然らざれば損(-)而して損の額が利益のときより大となり、従って的中の年の利益が不的中の損にて帳消しを受けるの条理及び実際を理解せず。斯くて被告人側の主張を“全く独自の見解”と結論したが、要は本取引の態様に就ての認識を欠くからの思考であって判示はその上の所得解釈である。

被告人は本取引の態様を正視すれば、後記第三の「商品取引所取引の課税不可論」が正しいものであって、此の金銭的利益は「所得」になじまずとするから、判示の「所得」解釈は誤りでありその基礎解釈から出た判決は誤釈誤判のものと主張する。

(ロ) 有価証券譲渡益の非課税は、有価証券の現物取引益は課税所得である処を、国民大衆に対する有価証券市場への投資を奨励する政策上の理由に拠るものであること、正に判示の通りであるが、有価証券の信用取引の場合に於ては、その取引が、有価証券の有する権利義務関係から離れて、唯、有価証券を“品物”と看ての取引であって、此の取引態様から生ずる経済的利益(金銭的利益)が発生・帰属の状態より、一年単位の収支計算からは仮り受金的であり、従って「所得」になじまずとして非課税が追認されて「所得税を課さない」(所得税法九条)となって居り、それは信用取引益非課税と特別に明規されたものではないが、同法施行令二六条1の「その売買についての取引の種類」なる文旬の規定の特別存在から解釈し得る処であり、依って判示に於ける有価証券譲渡益の非課税を、只政策上の理由に拠るものとなすのは、右の明文規定の存在を抵触するものと考える。

信用取引の場合が利益の発生及び各人に帰属の状態から、斯く非課税となっているがその発生・帰属の状態は、信用取引の態様が、清算取引なる値段本位の市場売買の所以であって、商品先物取引もその取引態様は清算取引なる値段本位市場売買であるから、その利益の発生及び各人に帰属の状態即ち解除条件付利益であることは同一である。而して之れが同一である以上には、一年の収支計算から各人に発生し、而して帰属する経済的利益のすべてに対して適用ある所得税法に於ては同一物件となる。

従って、商品取引清算益を以て、非課税とすることは法九条を受けた施行令二六条1の「売買についての取引の種類」なる規定の精神に従ったものであり財政法八条の「法律に基いた」ものである。

施行令二六条1の「その売買についての取引の種類」は法九条十一との関係に於て、

“一定の場合以外は所得税を課さない。

営利目的・継続的行為存在の場合は右一定の場合となるが、信用取引の場合(発行日決済取引も様)に限っては、たとい現物有価証券取引の場合に於けるが如く、営利目的・継続的行為と認められるとしても、営利目的・継続的行為存在基準の判断では課税所得とはならず。

即ち、信用取引の場合は、右一定の場合には該当せず”

と解せられ、而して一般人が有価証券の売買についての取引の種類は、現物取引か信用取引か発行日決済取引かの熟れかであり、現物有価誠券取引は現物商品取引と同様、実物市場本位売買であるから、その経済的利益は各人に解除されずに帰属するから「所得」たる可く、残余の信用取引及び発行日取引は右の一定の場合以外に該当すると解せられるものである。又斯く解せざれば此の明文は無用となる。

以上にて、有価証券譲渡益非課税原則は、実物市場本位売買である現物取引の場合が課税所得が本来的である処を、政策上の理由から非課税となったものと、清算取引なる値段本位市場売買である信用取引(発行日決済取引も様)の場合が、経済的利益の発生及び各人に帰属の状態から(一般用語として所得の性質又は所得理論と呼ばれている)非課税となったものとの両者が、理由として併存しているのである。

(ハ) 商品取引清算益に付ては、所得税法其の他の法令において、明らかに非課税とする趣旨が規定されていない以上課税所得であると判示されたが、それは「所得」に対しては背定される処であって、商品取引清算益は取引者にとっては、単にその利益を一時的に受け取って居る丈けであり、結局は吐き出すことゝなり終るものであるから、取引者に帰属未確定であり、「所得」になじまざる存在であるから、亦課税所得になじまずとするの他はない。特に、利益が発生すれば、帰属は各人に普通は確定して了うが如き状態の利益、換言すれば「所得」を、その発生面より把えて、発生原因と租税能力を勘案して、法二三条~三五条にて、十種目に分類した課税所得に対して「所得」になじまざる経済的利益までも非課税規定不存在の理由から、直ちに適用あるとするのは現行所得税制の建前から見て誤った法令解釈となる。

二、事業所得に該当せず

1 判示要旨

所得税法二七条を受けた同施行令六三条一二号の対価を得て継続的に行なう「事業」とは、社会通念に照らし、事業と認められるもの、即ち個人の危険と計算に於て独立的に継続して営まれる仕事をいい、所得税法の所得課税目的からは

“原則として対価を得ること、すなわち営利性、有償性のあるもの”

が相当する。而して、右に該当するや否やは

「当該取引の回数、数量、金額、過去の取引状況、取引のための施設その他の状況に照らし」

決すべきものとなして、(5枚目裏末行~6枚目裏八行要約)取引者個人に於ける主観的事情である仕事振り等から適用されると判示さる。

斯くて被告人の場合は差金決済取引にて生活費を賄い、日常、資料の収集とケイ線の作成に努力し、数回に亘り、相当量の取引を行なって、多額の益金を挙げたから、総合考察して、社会通念上対価を得て継続的に行なう事業と認められるものとなし、経費を控除した四、三五二万二、二四〇円が事業所得に該当すると判示されたり(6枚目九行~8枚目裏四行要約)

而して「事業」に関する被告人側の主張である「此の取引は偶然性に強く支配され、客観的な仕事としては営利性、有償性(原則として収支合い償なう性質)がないから、継続的に取引したからとて「事業」と申す仕事ではなく、地方税法も「事業」なりとは規定して居ない」(8枚目五行~末行要約)に対しては、

“なるほど、差金決済による利益のみを目的として行なわれる商品先物取引には堅実な実物取引と比較して、その営利性に不確実であるからといって、直ちに本件の如く、被告人自身がケイ線を作成し、その他の相場資料を収集して相場の変動を見込んだうえで、反覆継続して大量に行なった取引についての営利性事業性を否定することはできない”(9枚目一行~八行原文)

“又事業税は所得税とは性格を異にし、法定列挙主義であるから、本取引の場合が対象となって居なくとも当然であり、右の次第にて事業所得と認めた原判決(第一審、静岡地方裁判所)の認定判断は正当として是認することができる。被告人側の各論旨は理由がない”(9枚目八行~同裏末行要約)

と結ばれる。

2 問題の要所

(イ) 商品取引清算益は「所得」になじまぬ経済的利益であるから、「所得」を対象とする課税所得にもなじまず況んや事業所得にもなじまずとすること前にも述べた処である。

(ロ) 所得の発生面から分類されて課税所得の事業所得であってみれば、被告人の日常相場研究に没頭し、売買回数、数量、金額、過去の経歴、生活状況等、営利目的・継続的行為の個人に於ける主観的事情にての行為が相当な金銭的利益の発生を見たが為に、その行為は同時に「事業」に相当する行為と認められ、事業所得該当と判示されてあるが、その経済的利益が発生してそのまゝ帰属するものとした前提に於てのみ然る処である。

(ハ) 同一行為が行はれ、同一の主観的事情に於て、相場の見込みが的中し収益発生の際には、事業所得、見込が不的中となって損失発生の際は、理論的には、非事業所得となる。不的中の結果損となった場合は厳格には事業所得の純損失(法七〇条)とはならない。従って便法論は別として、純理では青色申告は無駄である。

(ニ) 「事業」に付てはその意味が法定されていないが、被告人は国民常識に沿うものとして、現代経済社会に於て

“原則として収支あい償なう仕事(行為で)であって、

その仕事をすれば長期に及びても営利目的・継続的に亦続行可能であるもの”

と考えられ、具体的には損得の機会に於て得が過半であり、損得は恒としても結局は収支差引きして+計算となり得る仕事が相当する。

斯くの如く理解するのは「事業」を客観的事象と見て営利目的継続的行為なる個人に於ける主観的事情が条件であるのと同様、仕事自体の事業性も事業所得該当の条件とするからであって、競馬、競輪等のギャンブル式に於て、研究の上勝馬、勝車を見込んで数回に及んで大量の馬券車券を購入し大当り屋さんとなった年に、経験歴も長く投機資金も豊富な常連ファンの場合、それが馬主とか八百長レースを仕組み得ない一般人のときは、その収益金は一時所得として取扱はれている現在の事実から推して、営利目的・継続的行為であっても、「事業」である場合と然らざる場合が区別されてあるから、常織的な考え方であると信んずる。

従って上記見解にての「事業に対して、商品先物取引は極めて偶然性に支配され、当てには出来ない未来のこと即ち商品の将来の高安を見込んで売買するが、的中か否かは五分と五分になり(元来「であらう」の当て事は継続して久しければ結局は確率は50%)加え、本取引には期限の制約があるから、売買して、的中はしたが、それが将来の末の末で実現したのでは間に合はず、法定期限内にては、相場が予測目標の値段に到達する処か、逆に反対方面に伸びて行く場合もあり、或は相場は横這いして了い、事実は不的中と異ることなき場合もあって、収益の機会は過半を占めることは出来ず、又、本取引では的中すると否とは儲けると儲けそこなうとに止まらず、儲けると損するとの対照的であり、+か0かに非ずして、+か-かである。而して+の連続もあれば-の連続もあり、亦+・-の交互もあって様々となる。然るに+及び-の量値は、出現した相場変動巾の大小如何に依っては区々となるが、一般的、及至平均的事情からは損の額は+の時の額よりも大となっていること本取引が損失にて結局は終っている実例から証明される。即ち、損得の機会に於て損の場合が多く、又損得は恒としても、結局は損勘定となる。

依って、本取引は収支あい償なう仕事ではなく、一かバチかの仕事であり、長く続ければ資産を失い反覆続行も不可能に至るから「事業」とするわけにはゆかない。

尚、判示された事業所得該当の「事業」の認定は、事業性のある仕事(行為)となっているが、(9枚目一行~八行要約)その行為の性質から、右の儲けると儲けそこなう、即ち+か0かの場合が前提される場合には背定されても、+か-かとなるが如き商品先物取引には事業性のない仕事と考える。蓋し経済的利益の発生面よりの把握にて、発生にて当然各人に帰属するとの立場を貫き、而して事業所得を考えるには、その「事業」は+か0かの行為内容でない限りは、元本課税にすら至るところである。

依って、或る時は儲けとなり(+)或る時は損(-)而して結局は欠損となる本取引の場合にはやがて、営利目的継続的行為すら欠損にて消滅するに至るから、たとい目下に於て利益を生じておっても、営利目的・継続的行為存在の判断方法にて事業所得とすることは不可となり、従って継続的行為存在の認定対象である取引の回数、数量、金額、施設、其の他の諸照準の状態の判断から事業所得とすることは不合理であって、而して此等照準の状態判断を用いて不可なる以上発生主義の現行所得税の事業所得には該当せず。

(ホ) 判示に於ける次の具体的事実は被告人の仕事振りのものであるが、将来の高安相場の見込みが不的中であったら逆に相当なる損失となるものである。従って、総合的に考察されても事業所得ではない。

(A) 昭和二六年末以来、商品相場業界を長く経験し、退職後は昭和四一年以降、生糸等商品の差金決済取引に仕事の大部分を充て、その得た収入に依って生活費を支弁し、資金の増加をはかった過去よりの事実(6枚目裏七行~7枚目八行要約)

此の業界の経験長きが故に相場で成功し得るとは限らない。

むしろ長き程、逆に失敗を重ねて脱落して行くのが実例である。商品仲買人とて、顧客よりの売買委託手数料にて収入を挙げているのみで、仲買人が自己手張りしても必しも、勝利することとはきまらない。仲買人が相場から確実に儲け得らるゝものは「のみ行為」と「バイカイ手段」とのカラクリ式取引である。価格上下運動の不規則性より、他業界で見る所謂プロの存在は、此の業態の取引では許されず、不時の価格現象にて一掃されて了う。被告人は昭和四一年以降運良く的中したからこそ生活費を賄い得たが、不的中なりせば没落していた次第。又相場を行なう者は資産の増加をはからんが為に売買するものであるから何ら異とするものでは無い。而して此等指摘された事が相場での収益確保の資格とはならない。

(B) 日常、業界紙新聞を通覧して、毎度々々仲買店と電話連絡を行ない、資料の収集とケイ線の作成に当った事実(7枚目十行~同裏三行要約)

人は誰でも、行えば熱心になるもので、相場の研究を怠らず、業界紙新聞を読み、仲買店よりは情報を求め、統計を作る位いの努力は行為する以上は当然と思う。此等の努力の模様があったからとて損失を回避することは出来ない。又儲けを多くすることも出来ない。被告人が自身がケイ線を作成し相場資料を収集して相場を見込んだうえ取引するのは、本取引が相場変動が対象であるからであって見当をつけずに取引するわけにも行かず。

被告人は昭和二六年名古屋繊維取引所が開設されて間もなく、同取引所所属の仲買人岡地貞一商店(昭和二九年末頃岡地株式会社に改組し今日に至る)の豊橋出張所の責任者となり、昭和三九年一月迄右仲買人の地方事務を担当して居たが、此の間十有年、多くの顧客にして唯の一人として最後迄儲けを確保した者皆無であって、損失の結果幾多の想像以上の悲劇を目前にし来たれり。

自分に於ても顧客の一員となって屡々此の取引を行ってみたが、失敗に続く失敗にて、遂には祖先より承けた不動産を悉く、売り払って損失金の穴埋めに充当したり、

茲に於て、本取引行為に依っては、前からの欠損金を奪回せんものと志しても、到底至難な業を覚り、退職前では之れが売買は断念して居りたり。

岡地株式会社退職後、暫くは勤務先を求めて暮したが、年令的にも当時は思はしき採用先に当らず依って自分の経歴を活かし、且つは被告人の是れ迄の相場失敗の経験を反省し、本取引では所詮儲け得て終ることは出来ないにしても、せめて損失額を最小限に止める可きとして、「商品相場で損を小さくする方法」のテーマにて、著書を出版すべく執筆にとりかゝり、先物取引にして、且つ清算取引から特別に変化する相場現象に関しての研究に没頭し、之れを実践に照合せしむる為に、ケイ線も作り、資料蒐集を主目的にて、再び本取引を売買したる処、生糸での当時としては被告人が予想外であった大相場の波に、全くはからずも乗り得て、(被告の研究では小相場の筈であった)その僥倖にて今回の事件となった黒子計算額を得た次第。

(C) 反覆継続した事実(8枚目八行及び9枚目六行)

本取引は前にも述べた如く、儲けるか儲けそこなうかに非ずして儲けるか損するかである。従って継続的行為は収益の積み重ねとなることは不可能であり、僥倖にて収益を累積したとて、反覆して取引したばかりに、一瞬にして金銭的利益の悉くを帳消して赤字額計上のことともなる。事業所得の「事業」は、反覆すれば、する程即ち継続的行為があれば原則として利益増蒿となる性質の仕事である。従って、原則的な利益増蒿が反覆行為に於て保証出来ぬ仕事は「対価を得て継続的に行なう……」の継続的行為に該当せず。

(D) 大量取引したと判示された事実(7枚目裏末行~8枚目二行。8枚目八行。9枚目六行~七行)

本取引では、取引量が多ければ的中のとき利益大となるが、不的中であってみれば損も亦大となる。この事は物量を以てしても成功を保証出来ぬ仕事であるとするものであり、「事業」とは事業性のある仕事を意味し、事業性のある仕事は、大量取引は収益拡大に撃る可きものである。仍ち本取引に於ては「事業」に妥当せず。

価格現象の上下運動にて収益が出来るのは、需給にて自然に形成される価格に対して、人為を以て価格形成に影響を及ぼす程度の大数量投入者である。被告人は横浜生糸、神戸生糸、大阪三品(綿糸)名古屋繊維(毛糸)相場にて昭和四二年間売買合計九八四枚

(此の数字は昭和四七年五月二七日東京高検、検察官中野博士検事より東裁一三刑事部宛に提出された答弁書3枚目裏九行記載に依る)を取引したが、右の各商品取引所公表に係る同年間の売買出来枚数の合計二、五六四、七八一枚に対しては、被告人の売買数量は〇、〇三八%となる。此の比率は中小のマバラ顧客が取引する程度に相当し、斯業界の実際としては被告人は九牛の一毛的取引量である。即ち商品価格形成に参加しても価格を左右する数量ではなく収益は確保不可能であるばかりに止まらず、見込みに的中する以外は、利益発生は期待出来ない。従って判示の売買数量は仕事振りの模様であっても「対価を得る」に至るものではない。

尚、判示は「先物取引を行い、年間少くとも二百数十回に亘り、九百数十枚の「売り」注文と三百数十回に亘り六百数十枚の「買い」注文をし」(7枚目裏末行~8枚目二行原文)即ち「売」「買」合計千五百数十枚の取引数量と掲上されてあるが、此の数量に付ては第一審の静岡地方検察庁居森喜代検事の起訴状では九八四枚となって居り、昭和四六年一二月八日、昭和四六年わ第一〇〇号静岡地方裁判所判決には掲載なく、前記答弁書には九八四枚である処を、本判決に於ては、突如増額数量となったこととなる。

審理杜撰の証左でなければ如何なる理由か諒解し得ない処である。又判示の大量取引と表現されるのみにて、事業性の行為存在する一因として断定されたが、有価証券取引に於て見る基準(年間売買五〇回・二〇万株以上)の如きものが、商品相場取引の場合に設けられていない今日、単に抽象的な大量と申す丈けにて事業所得該当従って所得税逋脱犯とされては、国民としては恐怖である。

(E) 四、四七六万九、二〇〇円の商品取引清算益収入を挙げた事実(8枚目四行~五行)

儲けた金額の多寡は、専ら商品相場の上下変動巾の大小に因って生じた結果である。即ち本取引の一般顧客では出来上る価格に作為し得ないから、相場運動の客観的事実のおもむくままにて、反対売買の決済を行って生じたものである。従って本取引の行為者が、相場の見込みに的中し、而してその相場変動の波に乗ったその波が、大なれば多額、小なれば少額であって収益金額は、客観的事実である価格現象のもたらす副次作用である。従って不的中の際はこの逆となって大損の赤字となる。

被告人は本件の昭和四二年を過ぎた昭和四三年以降は、左表の通り連年不的中にて昨四七年末迄に商品取引に因る損失金合計は三、三七五万八千余円(諸経費算入すれば四、〇三三万六千余円)であったから前記昭和四二年間の儲けは今や悉く失って不足金をも生じている。不足の足を出した理由は昭和四二年の儲け金四、四七六万九千余円より昭和三年以降四七年迄の損失金三、三七五万八千余円を差引けば一、一〇一万余円が残るわけであるが、本件が税務当局より事業所得税として取扱はれた為に昭和四二年度分として事業所得税(国税)二、四二七万四千余円及び之れに附帯する住民税(地方税)六六一万五千余円計三、〇八九余円(更に延滞税加算税(重)計一、二二二万三千余円は別とす)を支払済となっているからである。

爾後の損益計算

〈省略〉

昭和四二年度分課税額

〈省略〉

判示の清算益、四、四七六万九千余円は印象的乃至感情的には、此の際課税所得たらしむる可く、而して事業所得該当と考えられるやも知れぬが、上記実例の示す通り、相場の見込みの不的中によって、解消されて了うことゝなり、斯く黒字額が一時的には入金となったとて、個人に定着するものでなく、引き続き売買せば、結局は失って了うものである。従って相当の利益の挙ったものを見ても、その因って生じた売買行為を、経済的利益の発生と帰属とを可能ならしむる行為、換言するならば「所得」を獲る行為にして「事業」性ある行為と決定することは、少くとも商品先物取引の場合には無理となる。

以上の(A)~(E)の事実は、仕事の性質が損の場合が例外であって、儲けるか又は儲けそこなうか即ち+か0かの収支計算のものならば、判示に於ける“「事業」性なきにしもあらず”としての照準ではあっても、商品先物取引の場合に於ては、損得の二者択一であり、

それが相場の見込みの的中か否かにかゝり、而して的中か否かは、取引する者の仕事振り、儲けし金高の事実とは関係なく、価格上下の豹変的・不規則的運動なる偶然性に左右されて、折角の発生した金銭的利益も帳消を受けて売買行為者個人に帰属し得ずに終る。即ち「所得」になじまざるに終るの取引態様であるから、判示の(A)~(E)の事実は夫々は勿論、総合考察されても「所得」を生ずる「事業」性ある仕事となるの判断基準とはならず。依って斯る基準を採り挙げて「所得」発生とし、而して事業所得該当を背定の判示は法令の解釈適用方法を誤ったと考える。

(ヘ) 地方税法の事業に付て

地方税法の事業税に於ける事業は幾多羅列されてあるがそれは法定列挙主義にて「事業」を規定してある(9枚目八行~同裏八行要約)にしても、国民は納税先が国と地方とに岐れているのみと心得、同種の税金と思い、「事業」の総括的意味は所得税法が抽象的に規定していても、その具体化されたものが地方税法七二条が定めて、その羅列された範囲の仕事が「事業」であり、それが列挙主義の採用されたものであるか否かは、税法専門家以外の知る処でない。

被告人に於ても、昭和四十四年十二月三日浜松税務署の懇慂にて昭和四一年及び四二年度の所得申告の際、税法に於ける課税権者の優位性にて、同署平野雄二係官の用意された申告用紙の事業所得欄え、指図通りに、係官指摘金額を記載したばかりに、昭和四五年一月一七日静岡県より昭和四二年及び四三年度分としての合計一、一三九、六五〇円の事業納税令書が郵送され、依って浜松の県税事務所え赴き課税の理由を伺いし処、同所、一の瀬係員及びその課長(氏名不詳)から“国税が事業所得ならば事業税である。月末の期日迄に納税ありたし”の求めにて納税したる処、被告人が名古屋国税局調査の段階である昭和四五年三、四月頃同局の竹市肇係官と商品取引清算益の課税是非の論議に及びし際(昭和四六年七月二二日第一審静岡地方裁判所証人尋問調書証人竹市肇7枚目~8枚目)同係官の口より、右の法定列挙主義云々を聞き知ったる次第にて、之れに基き被告人は同年秋十一月頃静岡県より前記金額の還付を受けたり。

そもそも、一般人が商品先物取引を行った際、それを「事業」と看倣するならば、国民に適合あるべく、又法的安全の為にも、地方税法を改正して、本取引行為を新たに「事業」と規定されて然るべし、

然るに被告人が事件となってから今日迄数年を経ても何ら地方税の事業に付ては新立法がない。被告人が右の還付請求に当り、浜松県税事務所の担当課長より“静岡県としては自治庁とも打合せの上還付すべきは還付する”の言明により、国家中央機関も此の件既知と考えるに付、未だに新立法なきは、国家中央は商品先物取引行為は「事業」に非ずるとする立場なると窺知し得る処である。

第二、事実誤認関係

1 判示要旨

(イ) 判示は「被告人は商品清算取引による所得には所得税を課すべきではないという意見を持っていたとはいえ、それはあくまでも被告人なりに考えた希望的意見にすぎす、税務上はこの所得も税務署に発見されれば課税されるという認識を持っていたことは明らかである」(12枚目末行~同裏五行原文)となし、其の根拠を左の総合考案に置く、即ち

(1) 過去に課税事例存在の認識(糟谷仙一氏の場合も含む)

(2) 土井商事株式会社浜松出張所に於ての次の話及び行為

(イ) 被告人の取引内容を税務署員に見られないように配慮されたい旨の申入れ

(ロ) 税務署員の調査があったときは、本名と架名取引分の中の仮名分は被告人のものではないとして押し通す旨の口外

(ハ) 商品取引清算益の一部にて日常生活費に充ていたのに、毎月五万円の内容虚偽の領収証を作成し同会社に差し入れて仮装した。

(3) 日本勧業角丸証券、浜松支店江間営業係との次の如き話

仮名を止めて本店一本にして呉れ、の申入れに対して被告人は「税務署に判るから」と拒否した。

(4) 証人竹市肇尋問調書から推して昭和四五年二月二八日付質問てん末書

(5) 検察官に対する昭和四五年一二月二二日付供述調書

(6) 検察官に対する鈴木忠夫の供述調書

(7) 商品取引の委託者名に仮名使用して所得税逋脱手段としたこと。

(8) 商品益の大部分を仮名預金或は無記名証券にして、税金対策として所得を秘匿した。

そして、右の(7)及び(8)は取引の実態と所得把握とを困難ならしめ依って租税賦課徴収を困難ならしめるに足るから不正行為として、第一審の原判決の認定は相当と判示あり(以上10枚目裏九行~13枚目裏六行要約)

(ロ) 又、判示は「被告人としては、本件商品取引清算所得を非課税所得と確信していたとは認めがたく、この所得に対し、所得が課せられることを認識していた」(10枚目三行~七行原文)となし、昭和四五年四月二七日付質問てん末書中の「割引債購入は資金源を隠す為に仮名口座にて行ない割引債償還差損金の雑所得を申告しませんでした」の供述に依って逋脱の意思存在となし、原判決を支持された(10枚目一行~同裏八行要約)

2 誤認の理由

結論より先きにすれば、被告人の確信である後記第三にて述べる「商品取引所取引益の課税不可講」を以て独自の偏見乃至希望的意見―「所得税は課すべきではないという考えを持っていたが」(11枚目二行~三行の原文、「被告人なりに考えた希望的意見にすぎず」(12枚目二行~三行の原文―と断定し、それを税を逋脱せんとする目的の言い逃れと看倣し、而して左記理由の通り、言い逃れとする前提に於ての、全く馬鹿々々しき明らかに執るに足らざる証拠を採用し、その判断から軽々直行して、被告人に犯意ありとなしたものであって、三権分立の今日に於てすら、誤まれる行政権行使に協力した判決と申すべく、此の際民生の為に特と御審理を迎ぐ次第です。

(1) 過去に課税された事例を知って居たが、如何に課税権者の優位性があっても、其の課税処分が正しきものか否かとは別問題であり、ホテル業糟谷仙一氏の課税は違法と考えて居って、被告人の所得申告なきは此の考えの現れであり、課税背定は今も昔も致して居らず。

糟谷課税問題当時、岡地kkの豊橋出張所の証人兵藤勇が来訪の際、以前に大阪卸衣料kk取締役川副浜松常駐重役より、商品相場益の非課税に付て、堪能なる弁護士が大阪に在るの由を聞き及んでいたから、そのことを兵藤氏に告げ、糟谷氏がその気になれば紹介するから糟谷氏に連絡せよの旨を伝えたり(46・923第三回公判調書供述証人兵藤勇調査中1枚目裏四行~5枚目五行要約)

(2) 土井商事kk浜松出張所とは、本件の起った少し前の昭和四三年秋頃取引を打切り、取引先を岡地kk豊橋出張所にて外務員日高利夫扱いで、土井商事kkにて使用した豊浜中名義を取引名として取引先を転換し、土井商事kk浜松店責任者垣見健吉とは甚だ気まづい件であった。垣見責任者は口が軽く被告人の売買の手口を他人に口外し、又被告人えの売買手数料の割戻しを削減した(20%から10%となした)から、最早同店と取引する必要なしとして、互に悪口の上、いはゞ喧嘩別れであった。従って何んと悪しざまに云はるとも致し方なきも、本判決採用の事実は明らかに嘘言であるから、昭和四六年七月二一日第一審証人調べの際に「こうこうこうこうとつめよられば“はい”と答える他かなかった」の意を証言させた処であって(46・7・21垣見健吉証人尋問調書証言中8枚目八行~一二行要約)含みを持った推言は迷惑至極である。

(イ) 被告人の取引内容を税務署に見られないように配慮せよの申入れは事実無根の垣見氏は多弁にて顧客の売買手口を外部に漏らし、被告人も再々それを他の人より注告として知らされていたから、不足の言を屡々同氏に苦情したが、同氏は課税是認の立場であったから、己れの多弁の非を棚上げして、之れを税務署と結び付けて推察言となったものと考えるが、此の多弁無責任の気質こそ、被告人が同氏の店とは取引を打切りに至ったものである。

(ロ) 豊浜中なる仮名分は相場駈引上被告人の本隊であり、実名小幡は相場陽動作戦上の搦手用支隊であるから本隊分は他の仕事には絶対口外せざるよう職務上の商業道を守って秘密にされ度しと苦情したのは事実であるが、税務署員の調査があったとき本名分のみで押し切ると申したことなし、此の供述言は推察言ともなっている。

被告人は課税不可論であったから、初めて浜松税務署員の渡辺貫吉、及び平野雄二係官が昭和四四年九月八日調査にて、家庭訪門があった時、本名は勿論豊浜中並に他の仮名分一切を両係官に告げしものにして、垣見健吉氏の言質は如何に悪しざまで嘘言であったと知る証在と信んず。

右の両係官初来訪の模様抽写の概要は左の通りである。

(A) 昭和四四年九月八日午后一時半頃渡辺(以下渡とす)平野(以下平とす)両係官玄関より上って被告人の仕事場に直接入室す

渡「貴方は何んの収入で暮らしておりますか」

答「預金利息、公社債利子、株式配当金等を当にして、他には商品相場を行ない、儲けたときはそれが臨時収入となります」

渡「昭和四一、四二、四三年の各年間の商品相場での計算関係を見せて下さい」

答「古いものは廃棄して了ったから手許に無く、現在の有り合せ分ならば手許にあります」

渡「有り合せ分にて結構ですから一寸見せて下さい」

其処で、仕事室とは別となる居間に被告人は移動して、その別室の押入れの中の書庫を開き相場関係書類用として常用している小函を取り出して探していたら、背後に渡辺係官が立ち姿にて被告人の動作を見守って居られた。此の書庫の向って左横には小型の金庫が並んでいた。

被告人が「有り合せ分は此の小函の中にあります」と申上げた時

渡「その小函だけでなく、書庫内の全部を拝見させて下さい。又金庫内も見たいから開けて下さい」

答「金庫は私では駄目。〔注〕妻が帰宅する迄待って下さい。私は信用がないから開け方は知らない。妻はPTAにて只今学校へ出掛けて留守です。書庫は全部御自由に見て下さい」

茲に於て、渡辺係官は書庫内の小函の八段分の全部を通覧の上、内の二函を取り出して、最初の仕事室の部屋え持参された。而して平野係官と手分けして函の中の書類一枚々々を係官持参の用紙に記入し始めらる。その執務中の様子を見ていた。

被告人が「昭和四一・四二・四三年分は無いようだが、只今御覧になっている書類に記載されてある仲買人が前々からの取引先であるから、其等仲買人の店で台帳を見れば計算関係は直ぐ判ります。又豊浜中、大山大介等とそれらの書類に記載してあるように、本名口座も仮名口座もあります。仲買店にて小幡の口座と云って聞けば、本名も仮名も各口座の全部が判名するようになっています。昭和四一~四三年分の計算書が全部は揃って残っていない模様であるが、此等の計算書がどうしても入用とすれば、私から此等仲買店え再製するよう頼んで貰い、私は提出しますが如何ですか、但し多少の時間はかゝりますが」と申上げし処、

渡「それはどうするか、後で決めるが、或は作って出して貰うかも知れぬ」

被告「ではその決まり次第御連絡下さい。商品相場の儲けには税金がかゝらぬものであり、又かゝるべきものではない。国税庁長官もノー・コメントの態度と聞く。今御調べになっても結局は骨折り損の草臥れ儲けとなるだけでしよう」

渡「そのことは我々では返事が出来ないが、本日の処は一応調査させて載きます」

両係官が写すこと約一時間位にして終る。此の間静岡銀行舞阪支店の行員が二日ばかり前に預けた預金通帳を持って来てくれたので受取ったが、不断なら来ればいつも、少し雑談して帰って行くのが常であるが、来客中であると告げたら、玄関の庭先で用を達したら直ぐに帰って了った。而して両係官には、被告人「只今のは静銀の行員であるが、何か御用があるなら直ぐ呼び戻しますが」と云ったら、渡「いや結構」との返事であった。(此の時静銀に借金があるとは申さゞるに、昭和四六年七月二一日第一審証人調の渡辺証言は借入金があると被告人が申した旨となっている。不実陳述を公務員の身分でも行っている不奨であるが、打合せの上の証言と覚える)

両係官は金庫の開扉を求めて、右の書類を写し終っても暫時、妻の帰宅を待ったが、時間の都合かその後約三十分位いがたって帰って行った。結局金庫はあけず終いであった。

〔注〕金庫の開閉は私では出来ない理由は、被告人の家庭では、出納は全部妻の役であって、被告人には甚だ不便であるが、家庭平和の為、それが良いと考えたからである。

〈B〉 昭和四四年九月一二日初来訪後の五日目前記両係官午后二時頃再来訪して

渡「昭和四三年分は赤子、四一、及び四二年は合計六、四〇〇万円の収益計算となる。其の内訳明細は次の通りである。

とて手帳を出して読み上げられたから、被告は自分のノートに口述通りに手書きし置く(但し此のノートは昭和四五年一月二十日名古屋国税局から押収され末だ領置さる)

渡「其処で之れの申告をすゝめるが、商品相場の所得は『課税するもしないのも署長の腹一っで定まるから』先ず課長に会い、そして署長に引き合わせて貰いなさい。因に、署長は柴山サン、課長は所得税第二課長の伊熊サンと申し、伊熊サンは三階に居るから左様に承知され度い」

名前は前記領置されたノートに、渡辺係官より承った収益計算内訳明細数字の右肩上に記帳した。

尚、此の日は妻は在宅して金庫の開扉が自由であったが、両係官は以上の用件のみにて金庫内を調査なく帰って行った。

以上の事実にて、垣見氏の「もし、税務署員の調査があったら、本名と豊浜中の二本立で土井商事kkで取引した中で仮名分の豊浜中分については、被告人ではないとして押し通す旨を口外していた」とは故意の推定表現であって事実にも反する。

(ハ) 毎月五万円の講演料名義の領収証を昭和四二年一月以降土井の浜松店より売買手数料の割引料(リベート)として六〇万円以上を受取っていたからその数字に見合うよう差入れたものであって、当時リベート自粛にて業界はうるさき次第につき斯く領収書を作ったのであり、垣見氏の要求のものである。垣見氏が事実を曲げて中述べたのは、垣見氏と土井商事kkとは請負契約となっていたから、之れが動機で請負契約が発覚せば問題化するからと考えられる。仲買人の出張所は直営組織と定められているから、或は垣見氏自身が外務員報酬から此の分を差引くの税金工作であったかも知れないが、それはいずれにしても、被告人は昭和四二年間に同店より支払を受けたリベート料に対しての収益証である。

(ニ) 垣見健吉氏の供述内容に一貫して流れるものは、推察論であり、被告人に対する敵意論である。それは、被告人から売買取引取り止め、喧嘩別れの腹いせと、業界自粛のリベート支払事実発覚からの自己保全である。氏は消滅教する特殊教団(大阪市に本部があるとか)の信者であり、前々からの特殊性様であったから、被告人としては人間的にも、取引的にもつき合っては行けず、特に秘密を要する売買手口の第三者通報を憎んで垣見氏が責任者である土井商事kk浜松出張所とは縁切れとしたものである。

(3) 日本勧業角丸証券の浜松支店江間得二営業係は前記垣見氏の特別の紹介にて知り合った人である。被告人とは垣見氏側の人として交流したり。江間氏は被告人に対して幾度も「株式は五〇回・二〇万株以上となったら次から次えと仮名を代えて行えば、課税なく、安心出来るから、小幡サンもっとドシドシ御取引願えないか」と勧誘した手前の逆を行く先制的、自己保全的供述である。

証券業界の営業競争の激しき折、顧客に対して仮名取引を説論する有価証券営業セールス・マンは今日実在せず。「本名一本で取引願えないか」(12枚目六行原文)のしおらしき言辞が果してありうるであらうか。嘘言も甚しきものである。亦課税不可と確信している被告人が「本名一本にしたら税務署の方に判ってしまうのではないか」(12枚目七行~八行原文)と申すの筈もない。

要は他人の口には戸は立てられないものである。

(4) 証人竹市肇尋問調書の記載内容に徴して措信すべきものと認められる被告人の大蔵事務官に対する、昭和四五年二月二八日付質問てん末書(12枚目裏六行~八行原文)に付ては左の次第である。

(イ) 課税可否論議の経緯

此のてん末書に被告人が調印するに至った経緯として商品相場の場合課税可否に付序、口的論議が行はれたが、その要旨左の如し、

被告人「商品相場の場合、青色申告をした上にての事業所得としても、不運にも三年連続不的中の処、第四年目に儲けた人は遡って三年分の損が見て貰えるから、一先ずそれでよいが、反対に運良く三年連続の当り屋となって(こんな例は少ない)第四年目が是れ迄の儲けで太った為、売買手口も間広くなった処、不運にも不的中にて損も多額となり、是れ迄の三年分の儲けをフッ飛ばしたときは、その人は差引計算は零であるが、三年間の税金は、所得なきにも納税したことゝなる。それがついフッ飛ばした分より大きく損の赤字差引計算額とならば、その人は損の上にも納税させられたことゝなる。之れでは所得税の本来とは違ってくる。こんな例のときはその人は大赤字となっている筈だから再び立つ能はずとなり最早投機資金が無く相場が出来ないことゝなり、税金上の救済が受けられない。又、始めに説明した人の例である。三年連続の損があり第四年目に回復するの例は実際はあり得ない例である。三年も打ち続く損では、相場する者では最早投機資金も涸渇して居る筈で、第四年目の売買数量も応拠金が いから亦小さくなって居らうし、三年も損では本人も相場では兎角消極的な筈だから、前三年分の損をその一年で回復し切ることは現実としては無いわけだ。それで五年目で回復したらどうなるかと云うことになるが、第五年目だったら最初の第一年目の損は既に見て貰えない。損の大きいのは実際は第一年目のものである。損の出る時は余計に力が入るから、相場ものは力が入って丈け余分に出るものだ、二年、三年と損のときは、資本も無くなり気力もないから手口は小さくなり、そして損も小さくなるのが順序だ。それで第五年目が儲けても第一年目が除外されるからその人の相場での収支は未だ損勘定となっていても、第二、第三年の損が、第四と第五年日の儲けにて差引きした時黒字となったならば課税される。こんな不合理が堂々と国家の名に於て行はれては国民はたまらない。不合理の説明はまだ幾らでもあるが、兎に角事実事業でしかも青色申告にしても、結局は実際とは合はない。それに商品相場を商売として「事業」とは誰も思ってはいない。当るか当るのではないか一つやってみれば直ぐ判る。門外漢はいざしらず。商品相場をやってそれが「事業」とは世間では通らない。それに儲かるか如何か判らんしろものに青色申告をする人も無いと思う。商品相場では“儲け”が“儲かった”とは絶対ならない。儲けは世間の金を一時御預りした丈けだし、変なことにも、損の上塗りが多い。それで事業所得では商品相場には不適当だ。それなら一時所得ではどうだとなるが、競馬、競輪と一かバチかの当て事の点で共通するからこれで良いかとも思うが、そんなギャンブルものと同格では可愛そうだし、一時所得の定めとは一寸クイ違う。次に儲かった時に納税させられ、損したときは知らん顔で見てくれず税金の還付もない雑所得では明らかに元本にも課税となる。それで所得税には商品相場の儲けに課かるも適当な種類がないとすれば、租税法定主義で課税不可と云うことになる。同じ様なもので株の場合は原則がかゝらない。それで私はかゝる可きでないと思っている」

竹中査察官「そんなことは貴方の独りぎめであって通らない理屈だ。本日はそんな意見は聞いているわけにはゆかない。税金はかゝることに決まっている。無駄な議論は取調べが済んでからやってくれ」

右の論議が有った事実は、昭和四六年七月二二日証人尋問調書証人竹市肇証言7枚目中段から8枚目二行の被告人の質問に対する証人の答弁に於て明瞭である。

竹市査察官の「貴方の独りぎめ」「通らない理屈」に対して被告人との間に火の出るような論争が繰り返されたが、被告人としては同係官の論議打切りは、此の取調官では今後この機会を被告人に与えて呉れないような気がしたからである。同取調官では是れ迄調査の進め方から推察して、

『過去に課税されたから課税当然』

の一点張りであったから、課税事例の存在が必しも課税正当となるものではないの被告人の主張を中立てたかったからであるが、此の話が出ると、その糸口で話を回避されていた。

被告人が此の論議を特に固執したのは同取調官は

“他に課税された事実を知っているのに、所得の無申告は即ち逋脱行為である”

の前提を維持して、小幡萬夫は他に課税された事実を知っていた、又所得無申告である。依って小幡萬夫の課税不可の申立ては“言い逃れ”と致さねばならなかった立場にあり(名古屋国税局強制調査権発動の手前)それには可否論の討論を避けて技術的方法が必要であったからで、之れが明瞭となったのは此の目の調査に先立つ、昭和四五年一月二九日の調査の時、被告人と税務当局即ち、浜松税務署係官の始めての交渉模様の質問に於て被告人が、昭和四四年九月八日及び十二日の模様を既に記述した通りにて答弁し、『課税するもしないのも署長の腹一つで定まるから』の説明に及びし段にて

竹市査察官「とんでも無いことを申したものだ。その署員の名前はなんと申していたか」

被告人「渡辺さんと平野さんと聞きました。そして『私の取引関係の本名並びに仮名の一切を供覧し必要とあらば昭和四一~四三年分の全計算関係を仲買居に再作成の上提供します』と申した」

と答えた時に、一旦調査室である同庁舎七階の小部屋から退出され、暫時の三十分位の後入室された際それまでの質問てん末書は継続されずに終り、又上記の説明は新用紙の質問てん末書に何等筆記されず初動段階につき再び質問がなかった事実があり。斯くの如き同取調官の動静と翌一月三〇日調査に於ける同取調官の言語の端し端しを総合して、真実の調査が目的ではなく逋脱犯成立工作努力が同取調官の意向と察知したからであった。初動段階についての質問てん末書手抜きは、素人の被告人でも首をかしげ度くなるものであり、如何なる調査の展開となるか、極めて不安定に落入る処でもある。被告人としては、所得無申告の理由は速かに同取調官に申上げ度きも、此の点に触れると同取調官は「税金はかゝることで決まっている」の理由なしの一句にて発言を無視されていた。

(ロ) 調査事項の対話内容要旨

問「預金に仮名を使用した目的は何か」

答「失敗して倒産した場合、再起用に備えて火種とする為に債権者、債権者会議、執行吏等誰からも防衛して温存するため」

問「誰からもの中には税務署も入るが如何」

答「税務署とはかゝわり合いを持ちたくないと云う意味にて誰からもの中にも入るが、それは脱税する意味と云うものではない」

問「岡地株式会社在職中の昭和三七、八年頃、同社の幹部の脱税したことを知っておったか」

答「岡地貞一社長と聞く。仲買人の大将(経営実力者)の自己手張りには課税されても客にはかゝらないから、客側の動揺には安心を与えよとの趣旨が、当時の福富取締役から電話連絡があり、その方針にて顧客に引き続き御取引を願った」

問「伊良湖の人糟谷仙一が課税されたことを知って居たか」

答「顧客えの課税は税務当局のミスと考える。投機資金の出所調べが恐ろしくて糟谷サンは泣き寝入りしたと聞いた。噂を聞いた当時は、非は豊橋税務署に在る。糟谷サンが最後迄正論を貫く気持ちがあれば、大阪在住の有力弁護士を紹介するが、連絡せよ、と当時岡地豊橋店の糟谷係りの兵藤勇に伝言した。

此の答弁にて取調室は怒号にあふれた。被告人としては打切られた課税可否論議の復活を求めるの好機として答弁したのであったが、こと志しと違って、論議処か、係官がカンカンに怒って了い、遂に問答無用、作成した調書に捺印しろと迫まられるに至った。即ち、

竹市査察官「税務当局のミスとは当局を馬鹿にしている」

〃「国家の行った事には間違いなし」

〃「貴方の行動に反省なし」

〃「貴方は詭弁を弄して狡猾だ」

の繰返しで暫時する。同取調官のやゝ冷静をまって被告人は左の如く発言する。

「国家の行為の全部が全部正しいものとは限りません」「論議しましよう」

この一句にて再び火が着いたように、同取調官更に血相を変えて、卓を叩きて申さる。即ち

竹市査察官「国家のやることには間違いはない。貴方の答は全部ずるい。是れ迄の答はみな偽りである。

答は訂正させてみせるぞ。

『タタキ込まねば』本当のことを申さぬのか」(タタキ込む用語使用は真実なり。然し乍ら昭和四六年七月二二日証人尋問調書証人竹市肇証言8枚目三行~六行では否定されたが、左様とは法廷で申し得ぬと解す)

斯く『タタキ込む』の大喝式蛮声にて、被告人は恐怖にて発言の仕方も苦しく、何を語り何を話しても「貴方の答はずるい」では合槌的な迎合答弁以外に答えられなかった。

(ハ) 捺印の慫慂

右の問答と『タタキ込む』の用語使用の後に質問てん末書が作成された。約三十分位いは此の間は過ぎたが被告人は沈黙のまゝであったが、取調官の前の椅子にて対座するのが恐ろしくて、早く部屋を退室して了い度い気持で一杯であった。

やがて書き終って質問てん末書の読み聞かせを承けたが上記の問答事実とは異る表現内容のものであった。即ち仮名使用が脱税目的となっている危険な作文となっていた。

捺印を求められた際に咄蹉に同取調官は商品取引所取引の実情に暗いこと、課税可否論議を怒号にて応じ代えた税法には堪能ではないことより、被告人調査に付ては下調べ係官であって、いずれは商品相場の場合の利益の性質を研究して居り、且つは税法理論も明い上級係官の調査があり得るだろろうから(此の判断は間違いであったこと後日にて知る。竹市査察官が取調官として一貫して終った)寄席の前座式な取調官に逆っては日時の無駄と考えたから、一応答弁事実の相違点を指摘して訂正を求めたものゝ、同取調官より「此処に記載した通りにても差支えなし」の拒否には反駁することなく、(再び怒号の危険あり)本質問てん末調書の最後段に加筆を願い、否認の意味を同取調官のみには解せらぬよう苦心の末、云はずもがなの蛇足丈形式を借りて要求し、同取調官の毎度の恐縮文即ち「前回までは…誠に申訳けなく」云々の勝手加筆の上にて気付かずに添書されたり。

而して被告人表現の意味は、本質問てん末書は答弁ではなく、貴官の御所見として承知する。貴官の調査に対しては「御調査を一日も早く終らせ度い」「私の儲けが」個人に帰属し即ち「所得として」仮り受金から「確定したらば」「税金はすぐおさめます」であって、此の調査室から退出するには精一杯の抵抗であった。

此の『タタキ込む』の用語使用にて迎合式答弁書に変化した事情は昭和四五年一二月二二日、静岡地方検察庁検察官福井検事の被告人に対する供述調書作成の際同検事には申し上げた処である。

本質問てん末書は(A)商品取引所取引の一般顧客では、相場の見込みに的中する以外は利益の発生が無く、相場上下の二途の見込みであるから、儲けるときと損を出すときとあり、又売買手数料の関係から損得があっても損の額が理論上大きく、実際も儲けんとて反覆繰返し続行すればする程結局は損となって終る特殊商取引であって、一般商取引の如く、儲けるか儲けそこなうか例外として、たまには少々の損が出る程度の利益の性質、損失の発生程度関係より検討した場合、事業所得の予定する行為には当らず、又その発生した利益が個人に帰属せずに離脱して了うから「所得」になじまずの状態となり、而して斯る原因が商品取引所取引の態様から出でて居る事に就て、同調査官はその説明をも聞かず、凡ては被告人の偏見と断定し、(B)過去に課税事例の存在は、即課税当然にて同官の課税論議とは課税事例存在の認識するや否やの論議となし(昭和四六年七月二二日証人尋問調書竹市証言5枚目二行~同裏七行は同証人の考える論議とは、課税事例認否のことゝなした上にての陳述となっている)被告人は伊良湖の人糟谷仙一の課税事例の認識あり。(C)被告人は所得申告を行はず。以上の(A)(B)(C)にて一般商取引並に於ける課税の逋脱の意思があったと判断し、その意思の表現が仮名使用の手段であると独断し仮名使用の目的の真相を衝かずに(真相は商品取引所取引の態様に潜む)同取調官なりの所見として、ゴリ押式に発表したものであって、之れを以て判示の「被告人には所得税逋脱の意思があったこと」(12枚目裏末行~13枚目一行)に対する裏付けとするに足るものではない。

尚本てん末書及び同様な調子の昭和四五年四月二七日付質問てん末書、其の他仮名使用に関するてん末書は同取調官の推定意見書であった事を昭和四五年五月六日付質問てん末書の最後尾の段にて露呈したり。

(ニ) 決定的矛盾

右の質問てん末書の問答三は、自由発言を許された部分であり、その答のうち「清算益に……御検討ください」(原文御高覧を乞う)と筆記されてあるが、此の文の趣旨は、商品取引所取引益の課税は承認すると背定し乍ら、他方にて、被告人は被告人としての見解から然らざる事を表明している。

之れは正に矛盾する表現であるが、それは次の二つの意味を持つ。即ち(A)竹市取調官の取調振り模様を代表して物語り、依って同官のその作成した質問てん末書の品格を決定して居り(B)以て、之れに依存した昭和四七年五月二七日付東京高検中野博士検事の検察官答弁書所論の基礎は、その存在を喪っていることである。

其の理由は、第一は自由発言を許した不物、その問答の被告人の答の中すら「清算益に対して……お答えしたとおりですが」と記した点である。矛盾文と化したのも勝手加筆のこの一句であり、被告人の課税不可は言い逃れであって、而して被告人が言い逃れであったと認めさせるのを見せかけんと試みる技術的用語に過ぎない。此の様な答は、是れ迄の取調に於いて、事実の手抜き(例えば浜松税務署と被告人との初動関係情況の抽象)と糊塗(例えば住友銀行預金を仮名より本名並びに家族名に書換えして直したことを時効扱いにして、仮名使用目的の真意を歪曲したこと、この件は被告人の「昭和四七年五月二七日付検察官の答弁書に対する反論」と題する第二審裁判所への提出文63頁末行の(C)にて述べてあるが、同取調官の調査に於ては被告人の対話中に含まれる事項に係るもので、同取調官からはことさらに質疑なく、只“変なことだナァー”とのみ独語が在ったに止まり昭和四六年七月二二日の竹市証言(3枚目末行~4枚目二行)は時効完成を推定理由としている)が施され、質問てん末書には随所に於て恣意加筆が有ったことを立認する。

此のてん末書は同取調官に於ける調査の最終に当り、加え、最終文の自由発言にての問答欄に付ての被告には最後的発表機会のものである。其処に於てすら内容矛盾文となるのも敢えて顧みず、竹市調査官の自己一流の基本見解を打出して印象付けを施した事は、全質問てん末書が一貫して“課税事例の存在が課税当然、而してその存在の認識が違法性の認識であって、所得の無申告が違法行為”の前提にて、商品取引所取引の態様の特殊性の検討もなく、一般商取引並に解して、行為事実が判断され、その向きの内容が記載された事実を表明しているである。

次に、斯る最終且つ最後的なる場合に、斯の如き問答の記載が有った事は、商品取引清算の課税可否(被告人の不可理由は次項第三にて説明の次第)の検討が、実際に於て、本取調が解決済とはなって居らなかったことの告白の証左となる。即ち、全質問てん末書の片隅にても“斯々の理由にて非課税であると信んず。又は非課税は間違いであった。或は希望的意見であって、又は言い逃れ口実であった”云々の供述は商品取引所取引なる特殊取引態様からの所得無申告の場合が本件であってみれば、それを調査する以上は当然に触れることあって然る可き処を、被告人が言い逃れの口実をなしたと擬制して「誠に申訳なき」「御迷惑をかけ」「取り止めもなきことを申上げ」等の恐縮文の用語使用にて代えて表現するのみでは、如何に強引な竹市取調官と雖も“後味”が悪い為、終始非課税説をとる被告人の意を迎えて、最終の陳述として右の次第に取り繕ったのである。

然し乍ら、いづくんぞ知らん、此の取り繕いが被告人に対する同官の全質問てん末書は、被告人にその真意に非ざる供述を強いたる証拠にならんとは。取調官である竹市肇査察官の正に千慮の一失と申すべく、亦功績主義の勇み足とも云うべし。

(ホ) 嘆願書提出の動機となる

本質問てん末書に捺印後、被告人にとっては全くの不本意なてん末書であり、被告人の真意とは異るものであり、それが技術的功妙なる罠にかゝったかの感を受けたから、昭和四五年二月二八日以降竹市調査係ではなく、上級取調官の調査に於ては被告人の抱く見解が是非曲直を受く可く説明用意として、被告人の思考をとりまとめて所見書作成にとりかゝりたり。所見書提出して商品取引所取引の態様に明く又税法も堪能な上級官ならば、必ずや批判ある可く、昭和四五年二月二八日付質問てん末書が無理拵であることも判明されると考えられたからである。この事は本てん末書に捺印の瞬間にて思い付いたこと前記の通りである。

上級官の取調べ見込みは被告人の不覚なる観測違いであったことを後に至って知った。即ち二月二八日の調査後約一ケ月半位い過ぎた四月中旬頃の取調べも、同じく竹市査察官であり、課税可否の問題は此の人では回避方針らしく、話しても受付けないから、それとなく調査進行程度が今は何程と伺いし処“大体が終るが今は残余のみ”の返事にて、上級官の取調べ無くして調査終了が来ると受取った。

上級官に非ずして竹市査察官で一貫するならば、同官の面子から再び『タタキ込む』の怒号なきよう配意した嘆願書の形式に所見書を書き換え、妥協論的外観ではあるが課税不可の立場を窺知し得るように記述し、結局は竹市査察官以外の上級官の再調査を求める内容となした。

嘆願書の原稿が出来上り昭和四五年四月二七日の調査を受けたが同じく竹市査察官が取調官であったから、尋問に入る前に嘆願書提出希望を述べた処、同取調官の調査が全部終る迄は遠慮され度しと拒否され、同日は去る二月二八日の調査と大同小異の事項であり、争えば又もやコジれることであろうし、嘆願書を提出さえすれば名古屋国税局幹部も要再調査として処理するものならんと思い当日の竹市取調官の独断的質問てん末書に迎合的に捺印したが、そのてん末書も二月二八日てん末書と同様、仮名使用問題であって、被告人としては仮名使用目的は既に二月二八日付てん末書の最後尾にて否認してあるから、二月二八日と同一文の加筆を願うこともなしと考えて、その求めに応じた次第である。

嘆願書は昭和四五年五月六日付にて竹市査察官の調査終了を待って、上級官再調査を期待して提出したが、結局は無為となり、竹市査察官の質問てん末書が活き残った次第である。

以上の(イ)~(ホ)の実相把握あれば、昭和四五年二月二八日付質問てん末書は措信すべきものではない。

(5) 検査官に対する昭和四五年一二月二二日付供述調書に於て、被告人は商品取引清算益に所得税が課せられるものと供述したこと無し。課税すべきに非ずとする立場であって、後記第三の「商品取引所取引益の課税不可論」の通り、絶対的に課税不可は確信であり、何んら訂正を要するものとは思はず、況んや言い逃れの口実とするが如き下等なる考えを持たず。以上の不可論には論争を辞さぬ処である。

被告人は商品取引所取引の一般顧客には課税なきものと前々に聞いた事、又伊良湖の人糟谷仙一氏が課税されたが種々抗弁したきものがあるが投機資金源調査の恐怖から泣き寝入りした事、而して被告人は妻の弟兵藤勇の他二、三の岡地kk豊橋店出入りの客からも伝聞し、兵藤勇には課税は豊橋税務署の手落ちであるから、糟谷氏がその気になれば大阪在住の堪能なる弁護士を紹介の労をとるから糟谷氏に連絡してみよと申した位いである旨を静岡地検の福井検事に申上げたり。而して非課税の理由の一どして、具体的には年度々々を股いで清算損益が通算され得ないで、此の取引の態様では所得税の所得に課税するの建前に反した元本課税の結果が現出するの理を述べ、此の利益が仮り受金的であるから所得税法の予定している「所得」に完全には当てはまらぬもの故に、所得税法には非課税とする直接の明文規定が無いが、利益が「所得」では無くなってしまう性質から課税あるべきに非ずと説明し、過去に課税の有ったことも糟谷氏の場合以外にも知っているが、課税が行われたとてその課税処分が正しいか否かとは別問題と申上げたり。

又、課税ある可きに非ずと思うから税務署に知られようとて何んでもないが、現実の問題としては財源を求めて鵜の目鷹の目の税務署も何んらかの注目をなし、税務署員も人であり問違いもあるから敢て税務署とはゴタゴタするのは好ましくない。兎角儲けている時はゴタゴタし勝ちであって無駄な日時と労力は費し度くはない。此の意味で税務署には知られ度くないの気持ちは有ったことは事実である。去れど税金がかゝるから知られ度くないの意味とは違うと明瞭に供述したり。

尚、非課税理由に付ては、供述調書では大略の説明で終り、当時の検察官福井検事も、此の点は更らに細かく且つ深かく立入った質問がなかったから、被告人の説明で諒解下さったと思っていた。被告人としては検察官の御質問あり次第、之れに応ずるの気持ちで御調査に臨んだ次第であった。被告人が同検事にかゝる可き問題のものではないと強調した際、何に分にも名古屋国税局よりの告発であり、起訴するかどうかは自分一人で定めるものでは無しと申された。而してその際告発人が査察官竹市肇大蔵事務官の名を知った。依って、伊良湖の人糟谷課税の豊橋税務署のミス云々にて竹市査察官に『タタキ込む』の用語を使用され、それにて昭和四五年二月二八日付質問てん末書に止むなく捺印させられた当時の経緯を進んで申上げたり。

取引の仮名使用に関しては、竹市大蔵事務官の個人見解の展開であり、課税肯定と仮定したとて竹市サン書体は前段の商略目的と後段の対税準備云々は主従関係に於て転倒した表現であり、又清算益から仮名預金に運用した事に関しても竹市サン書体が、課税肯定の立場と仮定したとて、再起用火種目的にての財産温存が動機であって、清算益が税務署に発見されないようと考えるのは第二義に属する表現であらねばならない旨説明し、その説明は課税肯定を仮定した時の話であると述べたり。以上は被告人に於ては、税務署の調査があっても非課税たる可き利益は課税に至る可きでなく、調査は調査にて終るもので、調査の結果非課税利益は国民の自由のものとの考慮にて述べた次第である。従って課税不可論の被告人の考え方を申立てたものである。

次いで、松隈先生からは、清算益が課税可否に付ては御意見は承はれなかったが、現行の模様につき、所得税法の形式的な解釈から各地の税務署長の自由裁量に委せられてある旨を聞き、租税法に於ける課税課税権者の優位性のこともあって、浜松税務署が課税意向であるから一先ず納税すべく、昭和四四年一二月三日所得申告したことを述べ、続いて清算益に対して各地税務署長の認定に依って課税を受けたときは、争いの方法は別にあっても、兎も角は一応納税しなければならぬ悲しい立場ならば、松隈先生説の様に、課税か非課税か明確にして、紛議なきよう新立法が必要である旨を供述し、其処に於ても被告人の非課税説を曲げずに、一貫して之れを表現したものであって、課税を逃れんとして口実を設けたの供述は検察官供述調書を通じて皆無となっている。

依って被告人には所得税逋脱の意思に非ずして、所得税を不可とするの意思の存在である。

(6) 鈴木忠夫の検察官に対する供述調書は鈴木忠夫氏の所見の展開であって被告人の所見とは異り且つその被告人に対する観察は鈴木氏の推論である。即ち鈴木氏は糟谷仙一氏が昭和四一、二年頃、課税された事例に依って課税が肯定されるものと知り、此の理由からの肯定から推定して、被告人が動揺して居たと判断したのである。他人の口には戸は立てられないが、真実とは異る。被告人は次記第三の「商品取引所取引益の課税不可論」に述べてあるが如く、此の取引を深く検討するに於ては、本取引の態様からの利益は解除条件付的なもので会計学の仮り受金的存在であり、しかも引続き取引して居れば、取引態様からの必然にて解除条件の一度の出現か漸時的な出現にて解消され、仮り受金は零に確定勘定となり、更らに引続き取引を継続すれば仮り払金的勘定となり、その上投機資金の漸減的な涸渇から仮り払的赤字計算は回復出来ずに結局は一の赤字欠損に勘定が確定する。斯る条理は、本取引の売買受託者である商品仲買人に対して存在する商品取引所法九三条の「のみ行為」禁止の規定は、委託者保護の主目的の規定であるから、その条理を確認している。即ち商品取引所取引にて生じた利得は実らず「所得」として、一般顧客にはその利益は遂に帰属し得ず。依って「所得」にはなじまざるが故に、所得税法の「所得」を対象とする性質から、課税ある可きに非ずと確信する。

右の確信に於て、鈴木氏の如く糟谷課税の事例の存在が課税当然とは解さず。糟谷課税は誤りであって之れが事例の続出は誤りの積み重ねであり、不正の慣行にて正当行為と化す可きに非ずと考えらる。依って鈴木氏の「架空名義を使うのは資金の出た所を税務署に追及されるのを防止する面と、相場を張ってもうかった場合にこれに対する課税をされるのを防止する面と二つの両面の意味がありました」の供述は課税を否定する者からは、本取引の取引態様の検討に不足するが故の結論と見る。

以て、被告人には所得税逋脱の意思があったとするには不可である。

(7) 被告人がその本名のほか大山大介、豊浜中、水谷菊之助などの名義を併用したのは、所得税逋脱の手段として委託者をまぎらわしくするの意味をも含んだ手段と認めるのは正しからず。

第一は取引にての仮名使用は架空名義の使用とは性質が異る。仮名使用は売買の受託者に本人を知らせ、取引名は「何某」とするの「自己名を用いた」場合であり、取引にての架空名義使用は取引する者が本人が誰であるかと知らせずして取引する場合であって、商品取引所法八八条2にて禁止されている処である。

被告人は取引の受託者仲買人に、本人であるか誰であるかが判らぬように知らせずに取引したこと無し。されば仲買人から利喰い金を受取り、損の場合は自己計算より出金している。商品取引所取引では受託者である仲買人は受託契約に当り、委託者たる顧客から契約念書を取り、本名と取引名とを区別並記した用紙に、委託者に記名捺印せしめて証となして取引する。被告人は本名は勿論、大山大助、豊浜中、水谷菊之助などの名義を使用して取引したが、各仲買人には右の念証を差入れたり、即ち架空名義使用に当らず。

又仲買人に於ても、一般顧客との間に架空名義の取引は許さない。本取引が売買契約をして、反対売買の決済があって取引が結了するもので若干の日時が経過する態様であり、その間価格変動があり、依って顧客の責任者が不明では取引の不安となる。現物本位の取引では現品と代価とのヤリトリにて終るから、代価支払者の要求にて“上様”の領収証にても済み、責任者の所在者を表示せずに取引が行われ、架空名義の使用も出来るが、値段本位の取引ではそれが誰れであるかの明示なく自己の名を用いないでは取引をさせないものである。従って、自己の名を用いないでも責任の所在が明瞭で、取引に不安なき場合は、仲買人はその取引を受託することゝなる。しかしそれは仲買人経営の実力者個人の取引のみである(後記第四の「最高裁判所判決(昭和三八年一〇月三一日畑仲石一の件)所見」と題する中にて述べてある商品仲買人畑仲商店(法人)の代表者である経営上の実力者畑仲石一氏の自己個人の手張りの場合の例が該当する)

第二は被告人は本人が誰であるかが直ちに判明する証書を仲買人に差入れたのであるが、税務署が常に此等仲買人を調べるならば直ちに判明する組織となっている名義にては、課税逋脱手段たるには不可能となり、それを志すのは愚者とも申すべし、斯く税務署員が仲買人にて委託者が誰れであるかを、その差入証され調べれば直ちに判明するに不拘、之れを怠り所得税逋脱手段として委託者をまぎらわしくするためと認めることは無理であり、税務署の都合の為に国民経済生活が犠性となる。

第三は被告人は昭和四三年秋頃、土井商事株式会社浜松出張所とは、その責任者垣見健吉と喧嘩別れにて永年の取引を打ち切ったが、昭和四四年春三月一〇日から、岡地株式会社豊橋出張と外務員日高利夫扱いにて商品取引所取引を続行した。此の事は昭和四五年二月二六日付名古屋国税局作成の日高利夫に対する質問てん末書にて述べられてあるが、本件証拠として検察側は法廷に提出して居らず。右仲買人岡地・豊橋店にて使用した仮名の「豊浜中」は、取引を打ち切った仲買人土井・浜松店にて使用した「豊浜中」の仮名と同一名である。被告人に於ては、商品取引清算益が非課税であらねばならぬと確信しているからこそ、伊良湖の糟谷課税の豊橋税務署管轄内所在である岡地・豊橋店にて糟谷課税後に取引したのである。若し課税不安とあらば別の仮名を使用するのが人情である。検察側の不利な証拠の不提出は素人の被告人として残念に思う。

以上にて被告人の取引名を大山大助、豊浜中、水谷菊之助などとなしたことは架空名義使用に当らず、それは仮名使用である。しかもその使用は所得税逋脱手段として委託者をまぎらわしくするためのものではない。

(8) 清算益金四、四七六万円余りの大部分を架空名義の預金あるいは無記名の証券等にかえたのは、税金対策として所得を秘匿する為をも含んだものと認めるのは事実に反して誤りである。

被告人は昭和四一年の正月過ぎの午後五時半頃、土井商事の垣見健吉の紹介にて、当時の角丸証券株式会社(現在日本勧業角丸証券株式会社)浜松支店にて、同社の営業係江間得二を初めて知り、翌日、同店に出掛けて住所を告げ「豊浜中」なる名義を使用し(昭和四五年一二月一八日付静岡地検江間得二供述調書二問、昭和四五年一月二一日大蔵事務官村沢昭之の江間得二に対する質問てん末書四問答)債券百万円を買付けた。その後此の名義で取引し、国債及びいすゞ自動車社債の購入では取引名義は「水谷菊之助」であった(昭和四五年二月五日大蔵事務官竹市肇の江間得二に対する質問てん末書二問答」而して昭和四二、三年迄は「豊浜中」が引き続き使用された取引名であった。之れは住所も告げ取引の本人が誰れであるかを通知済であるから、自己の名を用いて取引名を「何某」としたもので架空名義に当らず仮名である。

「豊浜中」「水谷菊之助」名義は、前者は昭和四二年間では仲買人土井商事株式会社浜松出張所にて、後者は昭和四二年間にて仲買人大阪卸衣料株式会社浜松支店にて商品取引所取引を行った使用名である。前記江間得には有価証券売買の決済を此等両店にて行うよう被告人から依頼したこともあった(昭和四五年二月五日付大蔵事務官竹市肇の江間得二に対する質問てん末書六問答)そもそも「豊浜中」「水谷菊之助」は商品相場にての利益の発生をみたときの仮名の取引名義である。商品取引清算益について、被告人の主張の不可論が単なる言い逃れの口実のものであったら、資金源の発覚を恐れて、此の商品取引所取引にて使用した取引名を使用するの愚は致さずして、被告人は或いは隠ぺい仮装して別個の名義を使った処であるが、課税を不可としたからこそ、斯く資金源の発表となったものである。

無記名の証券購入の目的は商品相場では、取引の際、仲買人に預託する売買委託証拠金の代用として、その担保掛ケ目が株式より大であり、且つ定期預金よりは簡易であったからであり、又無記名債購入が資金源発覚の恐れと踏まれ、税金対策として所得を秘匿する為とするならば、そんな悪推量を人は避けてるから、一般的に有価証券の流通性は失われることゝなる。

預金に仮名を用いたのは相場に敗れた時に、再起の機会をはかって財産を他より温存するの目的一本のものである。被告人は住友銀行豊橋支店にて定期預金の仮名口座壱千万円を昭和四四年二月三日本名及び家族名の口座に書換え、又同年一二月二二日に期限の利益を拠棄して迄も再び仮名口座に潜在化させたり。之れは昭和四一・二年が儲けとなったから資金配分上潜在化の要なき為に本名としたもの、而して四四年一二月三日所得申告にて多額の納税金を支払うことゝなり、且つは四四年は商品相場での手痛たき損失があったから(昭和四四年末にて千九百余万円)急拠温存させたのである。被告人は斯く預金を操作したのであって、仮名口座の使用は商品相場道の定石であり、税金対策として所得を秘匿するとみるのは色眼鏡で、課税しては間違いと考えている被告人に於ては有り得ざる濡衣である。

尚、判示は「架空名義による取引や預金の設定は取引の実態と所得の把握を困難ならしめ、ひいては租税の賦課徴収を困難ならしめるに足る行為で、かつ社会通念上不正と認められるから本件において、原判決が被告人の犯意を認め、架空名義による取引の委託や預金の設定を「不正の行為」として認定したのは相当である。」(判決13枚目裏一行~六行原文)とするも、仮名が用語として架空名義であったとしても、上記の通り仲買人の事務所にて、法定書類である委託者の差入れた念書或は之れに該当する法定の備付顧客先住所氏名簿等を税務署が閲覧すれば、本人とその取引名の一切とが直ちに判明する受託者委託者の関係的組織となっているから、一片の通りがかりの通行客相手の取引組織とは異なり、仮名(架空名義)使用の本取引は租税の賦課徹収を困難ならしめる行為ではなく、而して本名とは別の取引名の使用は相場駈引の商略にして社会通念上も許される商慣習である上に、仮名(架空名義)預金の設定は相場道の定石であり、倒産してからの人生の底辺から一般水準え復活せんが為の最後の切り札的資金の設定であり、不正と意誠して行うものではない。それは相場道に於ける緊急行為的な仕儀である。

依って此等を「不正の行為」と認定した原判決並びに之れを相当とした本判示は、そもそも商品取引所取引なるものゝ全体的実態を把握せずして判断されたものであって、極めて不可なる断定と申すべし。

本取引では同一相場波動にて同数量の同条件で天井から底まで的中にて儲けた人でも、その値巾に相当する値段差益金から手数料が差し引かれるから、手取りの利益金は手数料分だけ少額となる。しかし反対に、不的中にて天井から底まで損した人は、その損計算の上に手数料が加算されて出金額は手数料分だけ多額となる。此の事は本取引に於て同一条件にあっても損の場合が儲けより金額的に大となる理由であり之れを引続き売買すれば欠損に至るの理であるが、現実は更らに甚だしく大きな損となる。的中の確率が二分の一にしても、投機資金の減少から、久しくは続行出来ぜ売買数量は漸減して常に同一条件にての反覆行為が出来ない。又儲ければ売買数量は人情として増加して同一条件を維持出来ずに手を拡げる。然れども確率が二分の一であるから、拡げて不的中なれば拡げた分だけは大きく損となり、折角の儲けは飛んで了う。要は本取引では儲けか損かの何れかであっては結局は赤字欠損に至る。このことは既に度々説明した処であるが茲では一般商取引と区別せんが為である。又結局は儲からぬものに税金工作は不必要であるから仮名使用は不正ではない。

一般の商取引では現物本位取引が主体であるから、儲けるか又は儲けそこなうかが普通であって損はたまのことの例外となる。従ってこの場合の仮名(架空名義)使用ならば明らかに儲けた時の準備工作と認められたとて仕方がない。又仮名預金とか仮名を使った割引債購入は、資金源の隠ぺい仮装と見られても不思議はない。この事が被告人の基本的な考え方である。即ち本取引での仮名使用は根っから対税工作ではない。

3 雑所得(割引債の償還差益)一一万五、〇〇三円の件

判示は被告人が商品取引清算所得に対し、所得税が課せられることの認識があり、昭和四五年四月ニ七日付質問てん末書は信用性があってその質問てん末書の割引債の償還差益の無申告の理由の答えに於て「その資金源を明らかにすれば、清算益も判ってしまいますので、買入れも日本勧業角丸証券の浜松支店で大部分を仮名の口座で買っており、申告しませんでした。との供述から雑所得の逋脱の意思があったとなし、原判決を支持されたり(10枚目一行~同裏八行要約)

然れども事実は被告人に於て、不注意にも申告の必要を知らずの儘無申告にして居たのである。

即ち、割引債を購入し、それが満期にて額面が償還されゝば、それで割引の金利が手取りされ、而して割引金利に対する税金が差引かれて計算されたものが債券の最初の売出価格となっているものと思い込み、税金関係は売出価格にて織込み済みと考えていたのであって、償還差益が未課税にして割引債の償還後納税されるの仕組みであった事は当時は全く心得て居なかった。

申告を要することを始めて知らせてくれたのは、昭和四五年四月一六日、名古屋国税局第二査察部門の小杉大蔵事務官であって、同日の被告人の取調べにて出頭した朝九時半頃であった。此の日はこの点の調査なく、半信半疑のまゝ昭和四五年四月二七日竹市査察官の取調を受けて此の差益に付ての質問を受けた。償還差益に付ての仕組を知らなかった事を答えたが、竹市取調官によって“嘘”ときめつけられた為に、当日は竹市取調官の筆のまゝに委せて早く帰宅させて貰った。之れは去る二月二八日の質問てん末書の内容と関係であり、再び『タタキ込む』と怒号される雰囲気では恐怖であり、傍々竹市査察官作成の全てん末書がやがて無数となる可く、上級担当係官の調査請求を内容とする嘆願書の原稿が成案を得たから、竹市査察官自作自問の質問てん末書に逆らはずに捺印したのであった。

小杉大蔵事務官より要申告のものと知らせられたが、之れに関する法律規定が手許になく半信半疑は未だ解けず、竹市査察官の四月二七日の取調のあった後に、機会を得て同年五月中旬頃上京の際、国税庁にて、同庁の当時長尾課長(課名不詳)の課の人(緒賀大蔵事務官と承る)から“現在では無申告でよろしいが、昭和四二年七月以前の発行割引債には、最後に償還を受けた人が申告しなければならない”との旨を聞いて確認した次第であった。

昭和四二年間の割引債償還益一一五、〇〇三円に相当する割引債は角丸証券株式会社浜松支店営業係江間得二扱いにて41・1・10第二九五回額面一、〇〇〇、〇〇〇円、41・9・12第三〇一回額面四〇〇、〇〇〇円、41・11・5第三〇四回額面五三〇、〇〇〇円、合計額面一、九三〇、〇〇〇円を購入した分であるが、此の有価証券の取引に使用したのは「豊浜中」であり、本名並びに住所は同店に通知済みである(昭和四五年一月二一日付大蔵事務官村沢昭之の質問てん末書問答四の答」而して「豊浜中」は、当時商品仲買人土井商事株式会社浜松出張所と商品取引所取引に使用していた処の取引口座名である。昭和四五年四月二七日付竹市査察官作成の質問てん末書が割引債償還益の無申告であったのは、資金源を明らかにすれば清算益も判ってしまうとさも誠らしく記述されてあっても資金源の発覚を恐れるならば、土井商事にて使用している「豊浜中」とは別名を角丸証券にて使用するのが馬鹿者でない限りは人情である。同一取引名を使用したのは此等割引興業債券の購入の機会に於て資金源が商品取引清算益なることを明白にした筋合となる。而して商品取引清算益が非課税が当然とするが故に斯く使用したものである。

仍て、原判決並びに本判示は司法権の独立を侵したものである。

第三 商品取引所取引益の課税不可論

1 税法の所謂「所得」になじまず

(イ) 商品取引所取引(店品先物取引)の態様

商品取引所は商品の先物取引(商品取引所法二条4)を行う為に必要な商品市場同法二条4)を開設することが主目的の経済団体である。其処に於ては、売買契約締結の時と、その履行の時との間に、若干の日時を距て、その間、同一の目的物を同一期限で同一数量、転売又は買戻ししたときは、商品の受渡しを行わずとも、売値段と買値段との差額に相当する金銭を授受して決済することが出来る取引である。即ち主として反対売買にて決済を将来に於て行う清算取引であって、格付された標準商品を対象とし(同法八〇条)売買の双方が取引所所属の会員に限定された仲間売買であって、一般人は会員である商品仲買人(現行商品取引所法が昭和四三年一月施行されて、商品取引員と改称される)に委託して、顧客となって参加し、上場の標準商品を対象とする売買となるが、現物のヤリ・トリではなく、商品に於ける値段自体がヤリ・トリの目標となっている所謂値段本位の市場取引となっている。

値段本位市場取引の態様は、売買する人の大多数は売らねばならぬ品物を持っているから売るのではなく、買入れたい品物があるから買うのではない。市場の相場が現在としては高過ぎる。即ち先安の見込みだと思えば売る。反対に、現在の相場は安過ぎる、即ち先高の見込みであるち思えば買う。そして売買契約をした品物を授受する意思がなければ、反対売買を行って差金の決済をすれば取引を結了出来る。空売・空買の市場である。又相場次第では、市場で反対売買をして差金決済をするよりも、品物を授受して決済をした方が有利だと考えれば、品物の授受を選び得る仕組みであって、その売買はあくまでも、品物に於ける値段自体が目標となって居り、品物と其の代価とのヤリ・トリである現物交易とは異るものである。之れを極言すれば、売買の目的が何んであるかは、売買する人にとっては大して肝要ではなく、品物に付ては、唯、相場を建る基準が確定することが必要とする意味にて、売買の目的物は特定の要があり、従って格付された標準商品又は特定の銘柄の株式有価証券が対象となっているに過ぎない。

値段本位市場取引としては、商品取引所取引は典型的であるが、我が国の証券取引所で行われる有価証券の信用取引及び発行日決済取引(昭和二八年八月大蔵省令七五号にて意味を定め、証券取引法四九条にて売買保証金関係が規定されてある)が、顧客には証券会社が信用を供与し、特定の有価証券に於ける銘柄の示す値段を目標とする空売り・空買い即ち清算取引の仕組みであるから、亦同じく値段本位市場取引である。〔註1〕但し商品取引所取引の場合と異る点は、商品の場合が、将来の一定の時期に品物とその代価とが取引されるのを、それを現に取引されるように制約された取引であり、即ち先物取引であって、現在示現の価格は奨来の一定時期に授受されるの価格であるに対して、信用の場合(発行日も同様)は現在に示現された品物である有価証券の価格とそれが将来に於て示現されたる価格とを以て差金決済し帰ることである。価格に於ける観念の相違であるが、両者共に空売り・空買の清算取引にして品物に於ける値段自体を目標とするヤリ・トリの点には両者に区別はない。従って取引した結果生ずる損得の事情即ち経済的利益の発生と売買する各人に帰属する模様は両者同一である。

商品取引所取引は魚介類、青果物等の中央卸売市場で行われる現物商品と其の代金との授受を目的とする所謂実物の需給投合を本位とする。即ち現物本位市場取引とは取引態様が異っていること勿論であるが反対売買の決済を行わずに、売買の建むをした人の都合によって商品を直接に授受して決済する場合もあるから、現品を以て授受する形式に於ては、現物本位市場取引と類似する。然れども、本取引に於ける授受は、決済を将来の一定の時期に於て行った売買契約の履行方法の一手段であって、それは当業者、即ち上場商品(同法二条5)又はその主たる原料品の売買、売買の媒介、取次ぎ若くは代理、生産又は加工を業とする者が、自己の事業の一還として本取引を利用して之れを行い得る処であって、当業者以外の所謂場違い筋である一般の素人顧客では、上場商品の持ち合せがないから、履行の決済手段として現品は渡し得ず。亦品物の実需先に暗いから現品の受取りも迷惑となる。従って所謂場違い筋では、現品の授受に依る決済は実際問題としては行われず、殆んどの一般人は反対売買にて決済し、売買契約を履行して居り、縦令之れを行うにしても、現品を受けて而してそれを翌月以降の先物限月分に売り繋ぎ、その先物限月分が終る期日(納会日)にて渡し切って処理する以外には現品の処分方法がなく、斯くては矢張り価格差金を求めて行う相場駈引上の売買の一手段であり、仍ちこの授受は所謂値段本位市場取引に戻する決済手段のものである。

(ロ) 特殊商取引

一体、商取引なるものは儲けがある反面に損も伴なうものではあるが、それでも通常は収支合い償なうもので欠損計算は例外である。然るに商品取引所取引は商品取引ではあっても、それが逆となって居り、理由は後記する処であるが、商取引とは名ばかりであって、(A)巨大投機資金を して、需給にて自然に出来上る市場価格に、人為にて価格を制御する所謂特別大口仕手筋。(B)商品仲買人の有する特典即ち「のみ行為」(後記す)及び「のみ行為」と紙一重の差である「バイ・カイ手段」等を行使する昭和三八年一〇月三一日最高裁判例に於ける商品仲買人の実力者畑仲石一氏の如き者。(之れは後記第四「最高裁判所判決所見」にて述べる処である)(C)商品の保険ツナギとベイシス取引をする〔註2〕自己の事業の一還として売買を行う当業者にとっては、商取引であっても、一般顧客の場合には本取引は一かバチかの勝負物が本質となり、収支合い償はざること通常なれば、その為に本取引を続行することかなわずに至る特殊なる取引である。

一般の商取引は現物本位取引であって、商品の撰別等にて労資を加える機会を持ち、従って商品の余剰価値を増加せしむるの可能状態にあり、又商品を産地より消費地へと或は卸より小売えと移動せしめ、使用価値を高めて先は儲けが有って当然となる。又、倉庫証券等を以てする仲間取引が思惑のものであっても、金融等の通常的売買条件の都合さえ整って居れば、その処分は、思惑期間を延長してその好む日、好む値段で好む相手方に対して自由に行ない得て収益可能となるが、それは思惑期間には少くとも法律上の制限が無いからである。処が本取引では定期取引(同法七八条一を受けた各商品取引所の業務規程にて、当月より起算された先き六ケ月)であるから、取引して居る者の通常的売買条件の都合如何に不拘、法定期限内にて売買の建む決済させられ、今処分すれば明らかに損失計算となることが判っていても、之れを延長することは出来ない。次に、仲間に於ける右思惑取引では、仮りに失敗したとて、その損失限度は思惑商品えの投下資本迄にて止まる。同じく損失の場合に付て見るに、本取引では売買にて顧客より仲買人に預託した売買委託証拠金、即ち顧客にとってはそれは投下資本となるが、商品相場が不時による大巾な変動が起り、一瞬にして、その証拠金を超過して損計算となり、顧客は証拠金の範囲を越えて生じた赤字金をも差金決済として証拠金を失った上にも支払義務を生ずるから、仲間の思惑取引とは同額の投下資本であっても損失限度を異にし、而して本取引では常に此の危険にさらされている。尚、仲間取引による思惑取引は現物本位取引であるから、現物の存在が前提となり、空売りに因る売り崩し、売リタタキに相当する値崩れはないが、本取引では巨大資本の作為にて売り崩しを受け、投機資金も少ないマバラ中小仕手筋では空売りには抗し切れずに、重勢相場より遙かに遊離した価格にて損の手仕舞いを余儀なくされるものであって、要するに本取引と現物本位売買の商取引とは損益関係の発生帰属が大いに異った趣きのものである。

商品取引所取引は商取引ではあっても、一般顧客には、相場の変動巾に困って生ずる価格差を求めて売買する取引であるから、商品には労資を施すの機会なく商品価値を高めることも出来ず、又消費者に余分に利益を請求出来る使用価値の増加も出来ず、唯、待たるゝは売買建む後の日時の経過であり、而かも儲けは将来の相場の見込みに的中したときのみに限り、加え、的中したとて実際の相場に臨んでの駈引心理から、相場変動巾に比して儲け額は少ない傾向と不的中のときの損が多額の傾向事実〔註3〕依り、儲けを累積したりとも不的中の損にて帳消しを受け、一時の大成金も倒産者と変り、又根が善良なる職員でも使い込み等の犯罪まで侵すに至る旨、テレビ、ラジオ、新聞も伝える処であるが、極めてリスク多き本取引一本を以て安略して生計を立てること誰も不可能な商取引である。

(ハ) 商品取引清算益は浮泡的存在

相場は高い処を売り、安い処を買えば儲けられると云うこと位いは誰でも判っているが、偖実際に売買してみると、仲々左様に簡単に思うようにはならない。相場は常に上に下にと波乱を描いて居り、高いと予測しても実は安く、又、安いと見込めば逆に高く、変転して極まりなく、そして無限な軌道を走っている。そうかと考えると真直ぐ昂騰また暴騰となって買いそびれて了うようなこともあるし、反対に下落に続く下落を重ねて何処まで下ることやら皆目見当がつかず、全く鱒でも掴まえるような心境と云おうか、そうした姿が相場の変動となっていることは、今更ら説明する迄もないが、斯る“相場の歩み”に於て、本取引にて売買する者を見れば、

「或る時は儲けても、或る時は損となる」

「殊に個人委託者は損失が多い」

となって居り、此の事実は一般人にも承認されている〔註4〕

本取引の態様が、現在と将来との価格差を求めて行為する所謂値段本位市場取引である以上、本取引にて一般顧客が利益の発生を見るのは、右の「相場の歩み」に於て、相場の高安の見込の的中以外には何ものもない。如何なる名人、経験者、学者、研究者も、物量を以てしても、又度び重なる連続攻撃も、そもそも的中しなければ儲けられない。而して、的中か否かは結果が出て始めて決定されるが、将来の高安に対する見込みは、未来に関する予測であり、未来は、人は誰れでも征服出来ないから、的中するとは限らなく、利益が発生するとは限らない。加え、将来の高安なる価格の上下二途に対する見込みであるから、不的中は利益の発生が無かりしのみに止まらず、逆に損失の発生となる。即ち本取引は、儲けるか否かに非ずして儲けるか、又は、損するかのいずれであって、之れ上記の「或る時は儲けても或る時は損となる」の理となる。

次に、本取引では、的中して儲けても、その際の価格差より生じた益金より売買委託手数料は差引かれることゝなる。而して相場の動き、回数、取引数量、金額、経験等が悉く同一条件に於て、逆に不的中の際は、その価格差より生じた損金は更らに手数料が加算されて損金以上の額が実損金となる。即ち同一条件にて、的中と不的中を究極の場合に於て見れば、不的中の損による出金額は、的中の益による入金額より大となる。本取引の売買にて、最初から損となる場合は勿論、反覆継続して的中、不的中交互にしても(表裏二途の当て事は、その確率は五分五分となるから)斯くて実損額が多く、又、一時的に、僥倖にして利益を積み重ねても、天災事変の不時の相場変化にて一朝にして失なう処、即ち偶然の恩恵は偶然にて亦失なう処となり、折角の的中にて発生を見た利益は、不的中にてより多き額となる損失の発生にて、個人に定着し得ずに解消となり更らに欠損となる。之れ上記の「殊に、個人委託者は損失が多い」の理となるものである。

従って、「或る時は儲けても或る時は損となり、殊に損失が多い」の此の取引で、唯の一度の勝負限りにて大成金となり、売買は後にも先にも無く終った人の場合は例外であるが、相場での儲けた味を占めたが為に、その後幾度も深追し、僅かな見込み違いからの一度の失敗にて大きな損を出し、結局は差引き通算は赤字欠損となって、以前の儲けは損に対する穴埋め用の準備金に過ぎなかった場合もあり、又現在の儲けが、以前からの欠損時代より通算すれば、既投下資金である元本の一部回収に止まる場合もあり、本取取引の利益は淀みに浮ぶ水泡的存在に他ならない。

浮泡的存在であることは取引経験者の誰も心得てはいるが、不思議とも申すべく、此の社会では儲けて自分の発意で相場から足を洗って了った人は皆目聞き及ばず。之れ“君子危うきに近寄らず”とする人からは理解し難い処であるが、現実は人間物欲本能の“夢を再び”と追う処であって致し方なき次第である。

(ニ) 商品取引清算益は暦年制では事実上は仮り受金

商品取引所取引は売買建されたもの(建む)には決済期日が法定され、各月の月末近くの一定日と決められ、当月より六ケ月の将来まで建値されて取引される。即ち、當月に於て、当月物(当月限と呼ぶ)は幾ら、翌月物は幾ら、又翌々月物は幾ら幾らと六ケ月先の月限りの値段が形成されて売買され、或る月の物を取引した場合は、取引日時の前後如何に不拘、その売買契約した月限に付ては、日時が経過してそれが当月に至っては、その月末の一定日に建むは悉く決済され、取引は結了される仕組みとなっている。従って六ケ月先き迄の取引であるから、其の年の八月には翌年の一月限が、九月には翌年の二月限が売買され、斯様にして、順次建値されて取引が行われ、当年内に既に翌年の月限の物も取引され、其の年の十二月に於ては、翌年の五月限が売買されている。

本取引は、前述の如く、「或る時は儲けても、或る時は損となり」従って或る年は黒字、或る年は赤字となる。更らにその仕組み上から、当年が黒字であっても、当年内に既に建むした翌年の月限の物が、翌年の法定された期日迄に決済されたとき、即ち当年末である十二月迄に翌年の一月限から五月限迄の何れかの又は全部の月限の物が建むされ、而してそれが翌年五月の有効期限の日迄に決済された場合が赤字発生となることもあり、その赤字額が大なりせば、前年の黒字は帳消を受けて損失計算となって前年の黒字は利益として帰属は出来ない。この事は本取引の仕組みが翌年の赤字原因の芽生えることを当年に於て既に行わせているからである。此の反対の場合は勿論収益計算となるが、要は当年に於て、既に、翌年勘定にて当年計算を左右する事情を本取引の仕組みが作って居り、既ち発生利益が条件付であることを約束している。

斯くして取引者の売買は月を追って延長されて行くが、本取引での真の収支決算は、延長されて建むされた売買の一ト勝負が結了して始めて確定される筋合いのものであって、税法の暦年制の単位期間から是れを見れば、その年の黒字は事実上では仮り受金、赤字は仮り払金となり暦年間の赤子・黒子は仮り勘定となる。而して此の仮り勘定も前記「殊に個人顧客は損失が多い」にて欠損勘定にて確定される。殆んどの実例は“相場の歩み”不可抗力的不時の突発にて、投機資金の消尽のみならず、仲買人には負債をも作り、止むなく相場界から消えて行くが、その期間は統年的には長くて五・六年、普通は両三年となっている。

(ホ) 「所得」にはなじまず

凡そ、所得の概念は、元来が経済観念であって、従来より種々の論議があるが、それが個人に発生し、而して帰属する経済的利益のすべてであっても、純資産の増加として個人に帰属、即ち増加が個人にとって確定せざる限りでは所得たり得ない。而して実定法である所得税法は暦年制を前提として単位期間を考慮しているから税法の「所得」とは、“個人の暦年間の収支計算の結果発生した経済的利益のすべてにして、その個人には実質に於て、純資産の増加として帰属確定したもの”であり、平易に申せば財産の増加分として定まったものであり、現行所得税法が課税所得の範囲は規定しているが、「所得」自体には定義を与えず、常に実社会に於ける現実の所得を前提としている為、財産増加分に対して課税するの所得税法の理念に照らして、斯く判断さる可きであり、従って、経済的利益のすべてが暦年間に発生したりとも、個人に帰属するに至らざること明瞭なるものは「所得」ではなく、又個人に帰属するも帰属解消する条件のものは「所得」になじまずとするものであって、商品取引益金が、暦年の単位期間では簿記学上の仮り受金勘定と事実的同一である処より且つは、帰属解消条件が理論的にも原則的に出現し、事実も殆んど条件充足に達するに至るから、「所得」になじまずとするも「所得」に非ずとする方に近いものである。

「所得」に付て、経済的利益の発生と個人に帰属確定を必要とするのは当然と信んずるが税法の仕組みに於て、赤字・黒字が差引きされて、帰属確定の実が或る程度収められるよう配慮された調整規定が設けられてある場合は、その該当所得種目となるわけであるが、その該当と考えられる所得種目所定の概念に妥当しない場合には(例えば一時所得、青色申告のある事業所得、後述)経済的利益の発生のみを以て「所得」とすることは出来ない。

尚、「所得」になじまぬ経済的利益の存在は有価証券信用取引及び発行日決済取引の場合に承認され、本来的非課税を“所得税を課さない”(所得税法九条」として追認されている。即ち有価証券の取引が現物取引上と上記各取引とあるに鑑み、所得税法施行令二六条1の「その売買についての取引の種類」の規定より政策上の理由にての非課税に非ずして、発生した経済的利益の個人にとって転々する帰属の状態、即ち発生した利益の性質から非課税となっているものである。

此の条理は取引態様を同一とするから商品取引清算益も同一である。商品取引清算益の非課税は社会的正義である。

〔註1〕昭和四三年四月社団法人全国商品取引所連合会発行、商品取引所関係法令解説7頁(5)参照

〔註2〕商品の保険ワナギとベイシス取引

保険ツナギは商品価格の騰落による価格損失の危険を救済する為にするもので、手持ち商品の、又はその商品を製造中であるが、将来製品化された時には、既に商品としての、値下りの危険があり、之れを避ける目的にて、所要数量に見合って現在にて売り建むを行い。或は入手予定の商品の、又は現在製造中であるが将来製造が終り、再生産行程に入る時必要なる原材料品の値上りの危険があり、之れを避ける目的にて所要数量に見合って現在にて買い建むを行なう方法である。商品を現実に売却し、或は原材料品を現実に購入したときは、建むを反対売買にて手仕舞って価格保険の目的を達する。従って此の方法によれば、本取引の損益は現物商品の益損によって相殺されて損得は零となる。

ベイシス取引は商品の流通の前後段階にて、例えば、機屋が紡績等のメーカーから一定の月間内にて所要量の糸を買付けるに当り、取引所の標準商品との間に特定の格差、即ちベイシスを設け、機屋・メーカー間に予め売買する取引であり、別名コール取引と称す。此の方法は約定期間中、機屋は自己に最も都合よき日、よき値段(それは安値)にて約定数量を買い建むし、相手方のメーカーは自己に最も都合よき日、よき値段(それは高値)にて約定数量を売り建むを行う仕方であって、此の売りと買いとは決済されて、その値段差はメーカーの責任となるものである。従って実際にメーカーから機屋え現物商品の糸が渡されたとき、メーカーは機屋からの現物糸代金と右の値段差金を合算して入手出来るから、メーカーとしては、その好む高値にて糸を売却し得たことゝなり、機屋は最初からその好む安値にて糸の現品を荷受けし得たことゝなる。依って双方は納得のゆく値決め取引をしたことゝなる。

以上の保険ツネギ及びベイシス取引は商品取引所存在理由の重要なる機能の一つであるが、当業者以外の一般顧客には現品商品とは関連なき為に、斯る売買を行わず、又その必要もない。当業者に於ては此の方法は自己の事業遂行の為に利用度は大となり、本取引の売買は自己の事業の一環として行うものである。

〔註3〕実際の相場に臨んでの駈引心理から、相場変動巾に比して儲け額は少ない傾向と不的中のときの損が多額の傾向事実

「相場の歩み」に対して同一条件にて的中者の収入金は収益金から手数料を差引かれた分が相当するが、不的中者は損金と手数料が加算された分が支出金となるから、本取引では損の場合が得の場合より多額なる事実は既に述べたが、之れを相場駈引の実践上から説明すれば次の如くなる。

取引に臨んで、殆んどの人が抱く相場駈引の心理は迷い(疑心暗鬼)と己惚れ(我執)との交錯であり、相場変動の不規則性から避けられない気分である。此の人間心理は勿論程度には個人差があり、迷いと己惚れとの割合にも亦個人差があるが、以下述べる処は、紙面の都合から幾多の実例より平均的事実である。

(イ) 相場に的中し、自己には順調な方向に相場が伸びている時

相場が更らに順調方向を持続するや、或は近々反転して不利の方向を指すやに付、的中にて当時はたとい有頂天であっても内心は必ず疑心暗鬼する。特に不時を恐れる。売買を仕掛けるに当っては、既に将来の高安を判断するに於て疑心暗鬼した処であるが、的中方向え相場が出掛かけた頭初は我執心は充足されても、手仕舞の時期とその値段の判断に付て迷うものである。此の迷いと相場変化の恐ろしさを経験している者は、早い目に利喰い手仕舞いして日夜の疑心暗鬼の心理情態から自己を解除する。誰もが程良しとする迄相場が伸び、誰もが利喰い手仕舞出来るような相場の地合は、相場は更らに伸びる力が残されて居り、相場は更らに伸び行き遂に行き過ぎにまで達する。行き過ぎの相場まで手仕舞いもせず残る者は己惚れに陶酔するに過きず、大欲は無欲に通ずる諺通りにて利益金は少額となる。結局は腹八分目にて早い目に建むを結了した的中者の収益額が他に勝る計算となるが、腹八分目なるが故に相場の伸びた実績よりは儲けは比較して少ないものである。

(ロ) 相場に不的中の場合であって自己には逆調方向に相場が伸びている時、相場が更らに逆調方向を目指して伸びるや、或は近々反転して、自己の都合よきに回復するやに付、疑心暗鬼するのは取引者の何人も同じ心理となる。然れども、始めの売買仕掛けの時に、高安判断に迷ったが、決断して仕掛けた以上は、自己の判断の方え我執するもの人間心理である。相場逆調であっても相場は自己に近々有利となる希望的観測になる。加え、此の際建むを投了すれば実損が明らかとなる。然れども人は自からの気持ちにて損失勘定を出すに忍び得ないこと。切腹には介錯人が入用であるのと同様である。従って損計算となっている建むはそのまゝとして荏再として日を経る。そのうちに売買委託証拠金も不足するから、資力のある限り追加して逆調相場にも耐え忍ぶが、相場には同一方向伸展の習性から相場は更らに自己と不利に伸展する。売買する人の資金には限りがあって再々の追証拠金の提供は不可能となる。相場逆調の此の段階に於ては、打続く資産の減少から、恐怖にて我執よりも疑心暗鬼が強く働き、相場の判断は混乱して異常化し、相場が行き過ぎて真に大転換となる状態にあるに不物、自己は更らに不利に落入るかと必ずや思案する。混乱異常化の判断であるから、茲に於て建むを投了する。我執に依る希望的観測にて心棒し、証拠金を次々に追加した丈けに損失は多額となる。而して相場は斯くなって始めて転換するから、その損失額は相場変動巾の実績に近づき多額となる。

以上は一般的な実例として説明する次第にて、要は利喰いは早くなり損切りが極めて遅れ、従って儲けよりも損が多額となることを心理的にも説明し、殆んどの実例となっている姿を説明したものである。

〔註4〕「或る時は儲けても、或る時は損となる」「殊に個人委託者は損失が多い」のことは、真実であるが、亦広く“延べ相場は結局は儲からぬもの”とは昔から定説となっている。別紙昭和四二年四月大阪三品取引所記録(写)の第三項の通り、本取引益に付て税法上如何すべきやの目下研究段階中の説明に於て、国会議員の表現した用語である。

2 所得税法七条の課税所得の範囲とならず

課税所得は、経済的利益のすべてが発生すれば、おのずと各人にそれが帰属するものとして之れを前提となし、その経済的利益のすべてを発生原因から考えて、利子、配当、不動産、事業、給与、退職、山林、譲渡、一時、及び雑の各種所得に分類して、担税力の具合等から配慮されて所得税法二三条以下三五条に於て各規定されてあるが、商品取引清算益は各人に帰属定着せず、結局は解消されて了うものであるから、その発生を見たりと雖も課税所得の分類中には含まれるものではなく、亦課税所得になじまずと申すの他はない。而して仮りに商品取引清算益が含まれるとすれば、事業所得、一時所得、又は雑所得となるが左の如く夫々不都合となる。

(イ) 事業所得(所得税法二七条)

法二七条を受けた同法施行令六三条12にて、事業所得である為には対価を得て継続的に行なう事業より生じた所得であらねばならない。之れは反覆継続すれば経済的利益のすべてが発生する行為に因って生じた所得が該当する。但し行為は事業たるを要す。而して「事業」たるには継続的行為が長期可能でなければならない。

商品取引所取引は所謂値段本位市場の清算取引であって相場の見込に的中した時のみ金銭的利益を発生し、継続的行為があっても不的中ならば、逆に金銭的損失を発生する。而して的中に続く的中は不可能事である。不規則的に上下変動する価格現象を対象とするからであって、此の行為は同時に、収支あい償なう仕事、即ち事業ともなり得ない。此の取引に因って得た利益は浮泡的存在であって反覆継続し、而かも不的中の際は帳消されて逆に不足金の足すら出すに至る。不足金の足を出す、即ち資金不足は継続的行為すら続行不可能に落ち入る。

此の事実は商品取引所法九三条の存在にて立証される。即ち同条は所謂「のみ行為」禁止規定であり、その存在理由は、取引の公正を期する為又は取引所取引税(取引所税法五条)の脱税防止の為のみではなく、商品取引所法第九章の前半の規定である第九一~九五条が委託者保護の為の一群となっている法規構成上、本取引に於ける仲買人の受託に当って、顧客である委託者についての、その保護の為のものであることが主たる立法趣旨となっている。

「のみ行為」とは、密売買の一種で、仲買人が顧客の売買注文を 正式に取引所の市場の場え需給として提出せずして、その仲買人が相手方となって、売付けと買付けとを同時に行って、売買を成立させる行為であるが、此の相場取引社会の裏面事実であるが所謂“客殺し”よりの、委託者保護が目的となって、商業道徳上之れを許すべからずとして禁止した規定である。

「のみ行為」を行なう動機は、一般委託者の投機取引は、一時は成功しても、結局は失敗に帰するものであるから、仲買人としては受託に当って、その逆を行く投機取引は成功することは必定としたからである。

〔註5〕此の裏面事実に対して、同条は禁止立法であるが、本取引の実際としても、顧客は一時的には成功して大儲けとなっても、引続き売買しているうちには、必ず失敗し、最後は時として売買委託証拠金の範囲をも超過して赤字を出し、仲買人に対して負債すら造る事情であることを認めて規定された次第である。此の社会ではお客を“置役”と称する程にて、継続的行為をすればする程、結局は対価を得られず、収支あい償なわぬことゝなるが、本取引行為が相場の見込みに的中せざる限りは利益の発生を見ないもの又必ず損失が発生するの取引態様の然らしむる処である。

「のみ行為」禁止規定の存在は、畢境“結局は儲からぬ仕事”「殊に個人委託者は損失が多い」であることを法律が承認して居ることであり、結局は発生した利益が、個人に帰属せざるに至るものに課税するのは、所得税が増加財産を対象とするの本質に照らし不合理であり、且つは対価を得んとて努力し反覆継続して行為し、その行為が同時に原則として儲けが発生し得る性質のものであって、其処にて発生した利益が、個人に帰属が無条件となるのを前提された場合が、事業所得であってみれば商品取引益金は其の定義に該当する処なし。

尚、事業所得には青色申告の便法があり(法一四三条)それをすれば純損失の繰越控除(法七〇条)の恩恵に与り得る制度となって居り、発生した利益が各人に帰属確定の実が或る程度(三年)は収め得らるゝよう配慮されてはいるが、便法を以てその定義に入らざる利益を該当せしむることは不可であり定義に反する違法に、青色申告は更らに違法を重ねるものである。又或る程度の帰属確定の実のみでは、所得税の法律上の本質に悖る。

(ロ) 一時所得(所得税法三四条)

商品取引所取引に於ける一般顧客は反覆繰返して売買するのが普通であるから、此の所得の定義である「営利目的・継続的行為の所得以外」とはならない。

此の所得は所得額から特別額が控除され(法三四条2及び3)然る上にもその1/2に減額されて課税所得と算定される(法二二条2ノ二)之れは発生した利益を個人に帰属確定の実を収む可く、即ち「所得」たらしむ可く或る程度の配慮された調整仕組みを用意しているものであるが、本取引の場合は定義に当らず違法となる。

競馬、競輪等の常連、或は賭バクの常習者は発生利益の性質から此の定義に該当せざるに不拘税務当局の事務規程(所得税基本通達)を以て、之れに措置されているが、一時的な性質の利益として重点を置かれているからである。

本取引とギャンブル式とは見込みの的中以外は利益が発生しないのは共通する。同じく「事業」とはならず、又外観的には営利目的・継続的行為は存在する。但し本取引の場合に関しては事務規程に何ら触れるものなし。而して触れるもの無きは、非課税が黙認されたと解せらる。国税庁長官の最近(昭和四五年七月一日)の通達に依れば、「所得税基本通達の制定について」の説明に於て、個々の具体的事業に妥当する弾力的運用を期して、法令の規定の趣旨、制度の背景、条理、社会通念をも勘案して、通達を適用せよと表明されてある。制度の背景から見れば、本取引は経済的思索であり、本取引への一般人の多集こそ国民経済の発展に寄与する処となり、その売買は商品価格形成を通じて、国民経済の適切なる運営に参画する行為であるから、同じく投機行為でもギャンブル式とは同格のものではない。

(ハ) 雑所得(所得税法三五条)

法六九条の“損益通算”の考慮は雑所得では除外され、又法七〇条の年度を股いだ年々間の“純損失の繰越控除”の配慮は法二条二十五にて、雑所得に於ける損失は純損失の意味とはならないから、之れ亦除外を受ける。次に法七一条の“雑損失の繰越”の制度は、雑損失の意味が、此の金額を定めた法二条二十六に基き法七二条に依って災害、盗難、横領を指して居り、本取引に因る損の場合は、雑損失の意味に該当しないから、此の規定に依る調整は得られない。更らに法七二条の“雑損控除”に付ても同様となる。

斯くて、商品取引清算益を以て、仮りに雑所得とするに於ては、年間収支ににて雑所得としての赤字の場合は、その黒字年の金額とは差引き通算が出来ない。従って黒字年はそのまゝの金額に対して税金を納め、赤字年は一切が除外されて、黒字年との間には金額的関係は立ち切られることゝなる。斯様であっては、所得を獲得する為に、特別な失費又は労力が前提とはなっていない軽徴なる利益が、即ち年間若くは年々度間に於て赤字黒字の差引き調整考慮を欠くも、国民との間に何んら摩擦を生じない、単なる余録の如き利益が雑所得として税法が予定する処であって、本取引益の浮泡的存在にて、一年単位計算では、仮り受金的であり、特に年度と年度との間に差引き計算を必要とするものに対しては、雑所得該当では、本利益の帰属が条件的に附されている性質より、その条件にて解消されるに至る利益とさらば、換言すれば解消された場合は、結果的には所得なき処に課税したことゝなり、所得税法の本質に反することゝなる。仍ち雑所得では不合理とする。

雑所得は課税所得としては他の各種所得、即ち法二三~三四条の所得から脱漏した利益を最後的に捕捉するために設けられた種目であって、而かも、本取引益が之れが適用をも不可とする以上は本取引益は法七条の課税所得の範囲外のものと云べきであり、もともと現行所得税法がその課税所得を、経済的利益の発生さえあれば各人に無条件に帰属するものを前提となし、その発生原因別に分類したものであるから、課税せば所得税の本質に反する経済的利益が課税所得外としてはみ出していても不思議はない。

〔註5〕昭和四三年社団法人全国商品取引所連合会発行、商品取引所関係

法令解説65頁第3節「呑み行為」参照

〈注〉 以上の説明中用語にて、商品取引所取引は商品先物取引、又商品取引所取引益は商品取引清算益と同じ意味である。

第四 最高裁判所判決(昭和三八年一〇月三一日畑仲石一の件)所見(非課税理由の援用)

1 判決の要旨に付

畑仲石一側の一時所得該当説の主張を退け、事業所得と判示されてあるが、同氏が個人資格で商品取引所取引を行なったとしても、自己の主宰する商品仲買人(法人・畑仲商店)の人的・物的施設を利用して取引したものであって、仲買人の経営最高実力者である被告人は、その地位より仲買人の立場を自己個人に集中して、取引した場合であって、外形は一般顧客であっても、被告人の場合に於ては、事業性があって、事業所得に該当すると判決されている。

此の判決は、商品取引所取引益に関して、一般顧客の場合にも事業所得なりとは判示されてあるものではなく、その実力者畑仲氏の事情に於て同氏の場合が事業所得該当と判断されたのである。

然らばその事情とは如何なるものであるかの問題であるが、それは仲買人と一般顧客との関係であって、仲買人と一般顧客との本取引上の立場の相違から見れば、商品取引所取引は、取引所々属の会員相互間にて行われ、一般人は会員である商品仲買人に対して売買を委託することに依って此の取引に参加する委託者であって、仲買人は受託者となる。而して受託者たる仲買人は受託に当って種々の特典を持っている。

2 商品仲買人の特典

特典中にて特に仲買人にとって売買取引上、有利となるものは(イ)バイカイ手段の行使と(ロ)顧客からの預託せしめた売買委託証拠金の余剰分の無断使用とである。即ち左の次第となる。

(イ) バイ・カイ手段行使

バイ・カイとは既に商品市場にて形成された価格にて、同一限月、同一数量の売買、即ち売り付けと買い付けとを同時に行って、仲買人が顧客の注文に対向して応ずる取引である。此の売買手段は正確には後商いに居する取引であって、電信電話等の連絡の手違いから、顧客の売買注文が、取引所内の立会場にて商品価格が形成決定される時刻に間に合わず、折角の顧客の希望する取引が不成立となって了うのを回避する目的にて、仲買人が顧客の注文に向って応じ、顧客の買いには売りを以て、又顧客の売りには買いを以て臨み、斯くして取引を成立せしめるものであって、此の後商を所属取引所え届出る事に依って「呑み行為」とはならなくなる。

バイ・カイ手段の売買は、真の需給の均衝によって市場価格が形成され決定されるの仕組みに対しては便法となり、注文である需給が立会場に反映せずして、而かも決定された価格を以て同数量が売買として成立するから、条件付にて便法が承認されているのである。(現在は市場値段が出来た直後の定刻迄に届出るのが条件となって居り、その定刻は各取引所によって区々であり、大体三〇分乃至一時間である)

此のバイ・カイに付ての実際は、市場立会中には、既に仲買人には顧客の注文が到達しているにも不拘仲買人は技術的な巧妙なる方法にて注文を市場の立会場に反映せしめず、之れを伏せて置き、立会場にて値段が出来上ってから、定刻迄の間にその出来上った値段にて顧客と仲買人との売買が成立したりとして届出て処理され、今日も旺んに行われている。之れが仲売人にて昔から横行するの理由は仲買人にとって甚だ有利となるからである。即ちバイ・カイ手段は実質上の「のみ行為」である。「のみ行為」は顧客の損は仲買人の儲けとなり、顧客は一時的に成功しても引き続き取引を繰返しさえすれば結局は失敗すると申して絶対誤りないものであるから、定刻迄に届け出て、取引所取引税さえ納めば承認される。この「のみ行為」と紙一重のバイ・カイ手段が有利であり、又仲買人が自己手張りの売買を行っている場合、価格操作用として仲買人には好ましからぬ注文を市場の場から遮断する目的にてもバイ・カイ手段を利用するが、目標とする金持ちの顧客を倒さんとしても利用し、強力なる取引上の武器となる。

(ロ) 委託証拠金の余剰分の無断使用

商品取引所取引が成立すれば、仲買人は顧客より売買委託証拠金を預託せしめる。而して仲買人はその半額を、仲買人の売買証拠金として所属する取引所へ提出することゝなっている。

処が、同一仲買人の顧客には売り方もあれば買方もあるから、仲買人としては、自店内の買建む数と売建む数とを相殺した残建む数が基本数量となって、顧客より預託せしめた委託証拠金額の1/2の金額を乗じた金額が要提供額となる(現在は此の点が改正されている)仲買人の売買証拠金としての要提供額が此の計算にて算出されるから、仲買人は自店内の売り方の建む数と買方の建む数とが同じならば、要提供額は零であっても許される処であった。従って仲買人は自店内の抱く懐建むが多数であっても、要提供額を僅少ならしむ可く努力し、前記バイ・カイ手段を利用している。而して、それは要提供額を差引いた預託済委託証拠金の残余である余剰金は、仲買人に於て無断使用が可能であるから(当時の統計では売買双方から預託せしめた委託証拠金の合計額の20%程度が一仲買人平均の要提供額であって、80%程度は余剰金であった)

此の余剰金は、仲買人が其の設備人件費等の諸経費を支払し、或はヤミ金融、土地不動産等の思惑買い又は仲買人の自己手張り投機資金に使用されているが、主としては「のみ行為」又は、紙一重の差にて禁止されていないバイ・カイ手段の相手方の顧客に備えて用意され、短期資金的に利用される。即ち相手方である顧客とて馬鹿には出来ず、価格の不規的変化も幸いして、一時的には当り屋の大成金も出来るから、その支払準備は必要となってくる。然し、的中者は概数的統計では十分の一、即ち十人に一人の割合であるから、支払準備率は見計いで良しとされている。極くまれでは、顧客の総当りの場合があるが、苦しくとも又無理な金融を受けても、顧客の利喰い金を兎角支払えば(技術的に支払延期は試みらる)一時的に顧客は儲けても結局は儲けは吐き出して損に至るから、その支払金は仲買人に必ず還流する処となる。即ち仲買人にとっては、本取引にて確実に儲け得られる「のみ行為」及び準「のみ行為」のバイ・カイ手段遂行の為の事業資金として、此の余剰金を無断使用しているのが、斯業界公然の秘密に属する裏事実である。

3 畑仲石一氏の場合と一般個人顧客の場合

判示に於ける被告人畑仲氏が商品仲買人畑仲商店(法人)の代表者ではなく、一介の顧客であるならば、本取引に於ては相場上下の二途の見込みに的中する以外は、商品取引清算益を挙げることは出来ず、其の行為に因る利益は「所得」になじまざるものであるが、同氏は商品仲買人の実力者の地位にあって、商品仲買人の有するバイ・カイ等の有力なる特典を利用し得る地位にあり、而して仲買人の人的・物的施設を利用し権力を自己個人に集中して取引に臨んだのであるから、その取引行為が「事業」でなくては何んであろうか。仍ち、本判決は斯業界の実情を正確に把握した正義の判決なりと尊敬する。

然して、此の際特に留意すべきは、本判決の基礎事情となる顧客の取引の場合である。顧客は「のみ行為」及び準「のみ行為」のバイ・カイ手段に於ける商品仲買人の相手側の立場にある。一時的には儲けても、所謂「置役」なる、何時かの末では損失者となるものとして仲買人からは餌的存在である。而して、此の委託者達の為に、法も認めて「のみ行為」を禁止して保護を加えている。斯る商品取引所取引及び此の業界の動きの全体的事情から、畑仲氏が受託者である仲買人の有する特典を自己個人に集中し、本取引に臨んだが為に、形体は顧客の立場であっても、同氏独特の場合が事業所得該当であったとすれば、通常の個人顧客は純然たる委託者であり、対照的立場のものである。依って、本判決の基礎事情が斯くあって、而して本判決の存在を無視し得ざるものとするに於ては、対照的立場である一般顧客は、本取引の場合は少くとも事業所得ではあり得ない。被告人小幡萬夫は純然たる一般顧客である。茲に於て本判決の意味する処に於て、御審判を仰ぐ次第である。

別紙

昭和四十二年四月 大阪三品取引所

個人委託者の所得調査に関する税務当局との折衝経緯について

一、昭和三十七、八年における綿糸、人絹糸商盛時に、一般委託者の商品先物取引より生ずる所得に対する課税が論議され、大阪三品・大阪化繊取引所及び三品、化繊仲買協会は税務当局と折衝、小口大衆客については取上げず、特に大口仕手客と覚しき委託者を対象に調査した。結果大口客の所得は、営利目的継続的行為として“雑所得”と認定したが、二、三年間の利益を通算すると殆んどが損失勘定となり、他の所得との「損失通算」により相殺すれば、他の所得は減少し、総所得金額の申告に当っては定期取引の損失(損失証明発行)を活用する様な気運をかもす懸念が生じ、一方大衆筋としても定期取引による所得が課税の対象となることを忌避し、二十九年以降商内高は激減、

三品(綿糸)一日平均出来高

二十七年度 一、三〇五枚 二十九年度 九七〇枚

二十八年度 一、八七一枚 三十年度 四五一枚

(一枚 五梱換算)

仲買人経営は不安定となり、且つ取引所の売買取引減少により繋ぎの機能を喪失するに至った。又税収面においても仲買人の法人税、取引税収は漸減した。

二、右の諸事情に鑑み、客先調査は、特別の大口仕手筋として指名された者の外は調査を見合わすことの話合いができ、税務当局もこの諒解事項を今日まで踏襲、何等摩擦を生じない。

三、所得税非課税運動の経緯(全国商品取引所連合会)

1 昭和三十九年九月より今日迄

○ 税務対策実行委員会設立(取引所、仲買人)

○ 折衝及び出席者

△ 取引所、仲買人 繊維、穀物、砂糖の主たる取引所及び仲買人、東京繊維、東京穀物、大阪三品、大阪化繊、名古屋繊維、横浜生糸、神戸生糸、大阪穀物、大阪砂糖、東京砂糖、外に連合事務局

△ 国会議員 西村直己先生

△ 税制調査会 松隅委員

△ 大蔵省関係 木村国税庁長官、原審議官、

(省)山下税制課長、掃部課長補佐、有馬係長

2 (取引所主張)取引税(年額約三十六億円)納付により、先物取引に関しての納税は充分その設目を果している。

3 (委員会案)先物取引より生ずる所得を申告する代りに、利益(損勘定は見ない)に対し一定税率(〇、五%)により分離課税方式にて徴税しては如何。又は証券式に継続的売買行為に対して課税する場合一定の基準(証券売買は年間五〇回、二〇万株以上)を設けて、これを対象とすることが合理的な制度と考える。

4 西村直己先生の御意見

「個人委託者の先物取引売買より生ずる所得を分離課税(新税創設)の制度を設ける案も出たが、これは所得税の基本的考え方を崩すことになり不可能。実際、税務当局が個人の清算取引所得を把握することは困難であり、又長期間を通じて見れば、或る時は所得を生じても、或る時は損失を蒙るというおそれが可なり強い、という事情もあり、殊に経験から見て個人の委託者については、損失が多いという点があるので問題の取扱いについては、大蔵当局が要請している

『課税の実情を見きわめ、納税者と税務当局との間に摩擦が生じない様な課税方法を研究し、これを制度化したい』

との方針に対して取引所及び仲買人も協力してほしい。」

以上の趣旨に基き、目下委員会において研究の段階にある。

以上

上告趣意書

弁護人 山本稜威雄

第一、第二審判決は擬律錯誤の違法ありて右はこれを破棄しなければ著しく正義に反するものと思料する。

即ち

一、 本件商品先物取引による所謂利益は所得税法に所謂所得に該当しない。

第二審判決はその判決書第四枚目五行以下第五枚目裏一〇行までにおいて………ことをあわせ考えると現行税法は納税義務者各人に発生帰属した経済的利益のすべてを所得といい、所得税法やその他の法令上において明らかに非課税とする趣旨が規定されていない以上、その所得の生じた原因または法律関係のいかんを問わず、それは課税の対象たる所得を構成するとしているものと解される(財政法第八条参照)

ところで一般顧客の商品先物取引は、実物取引ではなくこれによって生じた商品取引清算益が僥倖的な性質を有するものであるとはいえ、それは顧客の取得した金銭的利益であることに相違なところであるし、これを非課税とする規定はないのであるから、一般顧客の場合であっても、この商品取引清算益が所得税法上の課税所得に当ることは明らかである。

各所論は商品先物取引は利益の確率のないもので、一時的には利益を挙げても、二、三年取引を継続すれば結果的には赤字となるものであるから、その利益は実質的には仮受金的性質のものであって、一暦年間の所得をとらえて課税する所得税法上の所得にはなじまないものであり、商品取引清算益に右法律を適用して課税することは租税負担の公平の原則に反するばかりでなく、実質的には所得なきところに課税することになり、所得税制の根本原理にももとるという、しかし商品の先物取引が確実な成算のない取引であるといっても相場変動の見込みが的中すれば利益となるわけで、長期間これを継続して行なった場合に必ず損失をまねくとも限らない。

したがってまた商品取引清算益を仮受金的性質のものとみることはできないのであって、各所論のこの点に関する主張は全く独自の見解で採用できない。この商品取引清算益を一暦年ごとに区切って課税所得としてほそくすることはなんら租税負担の公平の原則に反しないし、所得のないところに課税することにもならない。

各所論は、また有価証券の譲渡による所得が原則として非課税とされていることに徴しても、株式の信用取引とその取引態様を同じくしている商品先物取引による商品取引清算益については、これを非課税とするのが当然であるというけれども、有価証券の譲渡による所得を原則として非課税としたのは国民大衆に対する有価証券市場への投資を奨励する政策上の理由からであると解されるので、右の主張も論拠のないものといわなければならない。

と説示しているが右は一般顧客の差金決済による利得を目的として行なわれる商品先物取引の本質を正解していない謬見である。

即ち一般顧客の差金決済による利得を目的とする商品先物取引(以下単に商品先物取引と畧称する)は代金と現物である商品とを交換して取引を済ます普通の商品売買とは全く異なり、商品取引所の開設する商品市場において仲買人(取引員)に委託して一ケ月乃至六ケ月先(これを限月という)の一定商品を現時点においてその時の相場で売り付け又は買い付けして一ケ月乃至六ケ月内には必ずその時の相場で売りは買い、買いは売ってその差金を授受して決済するものである。将来高くなる見込のときは買い、安くなる見込のときは売って各人思い思いに相場を張り、その思惑通りに相場が動けば儲かるが、これに反すれば損になる。而して通俗にはこの事象を捉えて相場は儲かることもあれば損することもあると云われているが、長く相場をしている場合如何に幸運に恵まれた相場師と雖もやがては没落して見る影もなくなるのが斯の世界の掟であり鉄則である。

右は厳たる事実である。然るにこの厳たる事実に眼を閉じ判決書第五枚目表四行より七行までに曰く「しかし商品の先物取引が確実な成算のない取引であるといっても相場変動の見込みが的中すれば利益となるわけで長期間これを継続して行った場合に必ず損失をまねくとも限らない」というに至っては全く商品先物取引の本質を理解していないというほかはない。

そして斯かる誤れる仮定論に基づいて更に論旨を進めて曰く(判決書五枚目八行より同裏二行まで)「したがってまた商品取引清算益を仮受金的性質のものとみることはできないのであって、各所論のこの点に関する主張は全く独自の見解で採用できない。この商品取引清算益を一暦年ごとに区切って譲渡所得としてほそくすることはなんら租税負担の公平の原則に反しないし、所得のないところに課税することにもならないと説示するに至っては共に相場を語るに足らないと思料する。

商品先物取引による所謂利益なるものは儲っているうちに完全に相場から足を洗った場合に限り残るものであることを銘記するべきである。

若し夫れ相場による利益が帰属して儲る見込(利益の確率=有償性)があれば商品先物取引のみを同的とする商事会社が国内至る処に設立されている筈であるのに斯る商事会社は皆無である。

又、商品仲買店における一般顧客は三年ないし五年位の間に殆と全部変ってしまうと云われているが、それは相場に一時は儲っても結局損をしてしまうからである。

然らば一時は儲っても長く相場をやって居れば結局損失を招いて産を失ってしまうのに何故、蟻の甘きにつくが如く人々が相場に蝟集するのか、それは結局一攫千金を夢みることができる相場の魅力が人間の投機心を巧に捉えて放さないからにほかならない。

以上の事実により商品先物取引による所謂利益なるものは一旦はその人に帰属するが如く思料されるがいずれは出て行ってしまう性質のものであるからその人に帰属乃至に定着したとは云えないものである。即ち商品先物取引で儲ったか否かは相場の性質上一暦年毎に計算すべきではなく相場をやめてしまった時点において判定すべきである。換言すれば商品先物取引による所謂利益なるものは一般普通の利益と異なり課税単位期間を一暦年とする所得税法に所謂所得に該当せず、これになじまない所得乃至に解除条件附所得と解するほかない。如何に二審判決が前記の如く「現行税法は納税義務者各人に発生した経済的利益のすべてを所得といい………」と説示していても似て非なるものまでも含めて「経済的利益のすべてを所得といい」と主張しているものとは到底思考されない。

二、 商品先物取引による所謂利益なるものを一暦年ごとに区切って課税することは租税負担の公平の原則に反し、又利益(所得)に課税するという所得税制の根本理念に反する。

右の如く商品先物取引による利益が所得税法になじまない利益(所得)乃至は解除条件附利益(所得)であって所得税法に所謂所得に該当せず、従って儲った年に限ってこれに課税し、損した年は不問に付する課税が租税負担の公平の原則に反するものであることは勿論利益(所得)に課税することを以てその本質とする所得税の根本理念に反するものと云わなければならない。

従って第二審判決が判決書第五枚目表一〇行から同裏二行までにおいて「この商品取引清算益を一暦年ごとに区切って課税所得としてほそくすることはなんら租税負担の公平の原則に反しないし、所得のないところに課税することにもならない」と判示している点は明に誤りである。

三、 有価証券の売買による利益は原則として非課税とする規定ありながら商品先物取引による利益につき之れなきは如何。

所得税法施行令第二六条第二項によれば有価証券の売買回数五〇回未満、売買した枚数又は口数の合計が二〇万未満の場合は非課税とされている。

右売買の中には実株の売買のほか商品先物取引と全く取引内容が同一である信用取引及び新株の発行日取引も含まれている。而して信用取引及び新株発行日取引のみならばその売買による所謂利益なるものは商品先物取引に寄所謂利益と全く同一であるから所得税法になじまない所得乃至は解除条件附利益(所得)として所得税法に所謂所得に該当しないから特に施行令に定める要なき処、右の如く実株の売買も含まれている。今日国民大衆が多かれ少なかれ有価証券(実株)を持っているのでこれを保護し且育成する政策的見地から信用取引及び新株の発行日取引を含めて、その売買に寄利益を非課税とするには法令の明定することを要するため規定したまでである。商品先物取引による所謂利益につき非課税とする規定なきは前記の通りこの種の所謂利益の本質からして当然である。従ってこれを規制するためには新に立法する以外に方法はない。

四、 商品先物取引についてその回数、数量、金額、その他と営利性、事業性との関係。

当業者ではなく一般顧客の差金決済による利得を目的として行われる商品先物取引についてその回数、数量、金額、過去の取引状況、取引のための施設、その他の状況がどうあろうともこの種取引には前記の通り営利性、事業性は出てこない。

然るに第二審判決はその判決書第六枚目九行以下同裏三行までにおいて「ところでこの対価を得て継続的に行なう事業という場合の「事業」とは社会通念に照らし、事業と認められるもの、すなわち個人の危険と計算において独立的に継続して営まれる仕事をいい、所得税法の所得課税の目的から、原則として対価を得ること、すなわち営利性、有償性のあるものを総称すると解するのが相当である」と前提して同四行以下同八行までにおいて「そして当業者ではなく、一般顧客の差金決済による利得として行なわれる商品先物取引が右の対価を得て継続的に行なう事業に当るかどうかは、当該取引の回数、数量、金額、過去の取引の状況、取引のための施設、その他の状況に照らして決すべきものであると考える」と説示して同九行以下九枚目八行までにおいて縷、被告人の取引内容を説明して被告人の取引についての営利性、事業性を否定することはできないと説示しているが右は商品先物取引による利益なるものを正解しない。換言すれば相場の本質を理解しない見解であるから到底賛し難い。

五、 地方税法に定むる事業税につき商品先物取引の場合が洩れている。

第二審判決は被告人の商品先物取引による利益(所得=判決書に所謂商品取引清算所得)を所得税法上の事業所得と解している(判決書九枚目裏九行一〇行)が、地方税法第七二条は事業税につき個人についてはその行う第一種事業(商工業等四一業種)、第二種事業(原始産業四業種)及び第三種事業(主として自由業二九業種)に対して課税するという法定列挙主義を採用している処商品先物取引が洩れている。今日国においても地方自治体においても財源を求めるに「血まなこ」になっているとき洩れている所以のものは商品先物取引による所謂利益なるものは前記の通り所得税法に所謂所得に該当せず所得税法になじまない所得乃至は解除条件附所得だからである。

現に被告人は当局の勧奨的命令により昭和四四年一二月三日不本意ながら本件所得を事業所得として申告した関係で所得税を課せられたため、地方税法第七二条により昭和四五年一月一四日静岡県から地方税法による事業税を課せられたので被告人は商品先物取引は地方税法第七二条に列記してある事業より洩れているから、換言すれば列記の事業には該当しないから納税の義務なき旨の異議を て即日、一応納付したがその異議は認められて昭和四五年一一月二七日附で還付の通知がありて当時還付された事実がある。

この還付関係の書類は第二審において証拠として採用されている。

六、 畑仲石一に対する所得税法違反被告事件につき昭和三八年一〇月三一日なした最高裁判所第一小法廷の判例は本件に適切でない。

右判例は被告人畑仲石一の商品(人絹)先物取引による利益は所得税法に云う事業所得ではなく一時所得であるとの弁護人の主張を付けて曰く。

弁護人吉田耕三、同芹沢政光、同貴志信明の上告趣意は事実誤認、単なる法令違反(清算所得を得る目的で自己の主宰する会社の人的物的施設を利用し、又は他店を利用して年間売り、買いとともに数百件の人絹清算取引の委託をなし、取引金額二億円に近く、利益所得も約七八〇万円ないし二、八〇〇万円にのぼる本件清算取引所得は営利を目的とする継続的に行う事業による所得として所得税法上の事業所得と認むるを相当とし同法上の一時所得と認むべきものでないとした原判決は正当である)量刑不当の主張であって刑訴四〇五条の上告理由に当らない云々とある。

よって先づ畑仲石一は如何なる人物であるかと云うにその控訴審判決によれば、被告人は福井市内において永く織物販売業に従事していたが昭和二五年三月同市佐佳枝中町一二七番地に原糸及び織物の販売を業とする株式会社畑仲石一商店を設立し自ら代表取締役社長となったうえ昭和二六年二月福井人絹取引所が再開されるや同取引所に右会社を商品仲買人として加入させ同会社の業務として同取引所の開設した商品市場において人絹糸の先物取引に従事するとともに自己個人においても同会社に委託し、或は同取引所に加入している他の商品仲買人又は大阪人絹取引所加入の商品仲買人に委託し継続して人絹糸の先物取引をなし来り、その副業として若干の農業に従事して来たものであるところ云々………

というのであるから彼畑仲は仲買人としてではなく個人で人絹先物取引をしたとは云え普通の一般顧客のなす人絹先物取引とは凡そ異なり、その経験と資力にモノを云わせ殊に、

(1) 商品仲買人株式会社畑仲石一商店の手許に保留してある一般顧客よる予った証拠金を何時にても自己の相場に利用〈注〉し得る地位にあったこと。

〈注〉 仲買人が客より預る人絹一枚(約五〇キログラム)に対する証拠金を仮に一万円とすると株式会社畑仲石一商店はその内約二分の一を取引所に納め残りは会社に保留してあるので彼畑仲は自由にこれを自己の相場に利用することができる。従って客が多ければ多い程彼畑仲には都合がよい。

(2) 顧客の相場の張り方を知り、これに売り向い又は買い向い特に相場に儲っている顧客の売り又は買いに同調して速に勝機を掴み得る使宜があること。

(3) 他の仲買人と組んで大相場を展開することができる地位にあったこと。

等により一時的にせよ自己の欲する通りに人絹相場を左右して価格を形成し得る実力者であった。換言すれば彼の人絹先物取引には一時的にせよ利益の確率性(有償性)があったから彼の人絹先物取引はこれを事業と見做してその利益(所得)に所得税を課して何等差支ない。

然るに本件被告人は斯る実力者ではなく、彼畑仲とは釣鐘と提灯の比にも及ばない吹けば飛ぶような弱少、小口の相場師である。

斯る弱少、小口の相場師が如何に全力を傾けても亦何人協力しても相場を左右して価格を形成し得るものではない。従って利益の確率性がないから何回継続的に取引してもそれは事業にならない。即ち彼畑仲にありては事業なれども被告人にとりては事業ではない。

本件被告人の場合を畑仲の案件と同一なりと速断して概論一掃することは慎しむべきであって商品先物取引における両者の地位が全く異っているから右判例は本件に適切でない。

尤も彼畑仲と雖も長く相場をやって居ればいづれは利益の確率性を失い事業とはならなくなる。要は一時的にせよ利益の確率性がある間は事業と見做され又見做すべきであると弁護人は主張するものである。

七、 雑所得につき過失を処罰した違法がある。

割引興業債券を額面以下で購入し償還期に額面にて償還を受けた場合、購入価格との差額即ち償還差額益金一一五、〇〇三円が雑所得であることは何等異論ないが被告人は右割引興業債券購入にあたり額面以下にて購入したことは記憶しているが、償還時に額面で償還を受けたとき購入価格との差額即ち償還差益金があったことは失念していた処今回名古屋国税局査察官が本件取調の過程において発見して、これを被告人に教え被告人も教えられて始めて知ったのである。従って過失犯として問擬するなら格別、故意犯としては全然問題にならないと信ずる。

償還時、額面で償還を受けたのであるから算数上これより購入価格を差引き、その差額に課税すると云うなら、即ち課税問題として処理する場合はそれでないが苟も刑事問題として取上ぐるに当りては故意又は過失を要すること勿論である。而して所得税法第二三八条の罰には過失を罰する規定がないから飽くまでも故意を要する。故意を要する犯罪に査察官の命ずるままに被告人が作成した表記に単なる数字の記載あるのみにては未だ以て故意ありとするには足りない。既にして故意の認むべきものない以上、本件雑所得の点は無罪なりと信ずる。

尤も第二審判決書には昭和四五年四月二七日附査察言の被告人に対する質問てん末書の記載を引用して逋脱の意思を認めているが右質問てん末書は後述する如く信憑力を欠くから証拠力はないと信ずる。

第二、 第二審判決は判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと思料する。

即ち

第二審判決はその判決書第一〇枚目裏三行より第一三枚目裏六行までにおいて縷々被告人に所得税逋脱の意思及び不正行為のありたることを認めているので先ず所得税逋脱の意思につき説明せん。

一、 被告人には所得税逋脱の意思はなかった。

(1) 被告人は当業者でない一般顧客の差金決済による利得を目的として行われる商品先物取引による所謂利益にについては、元来非課税意見であった。

被告人は右商品先物取引による所謂利益なるものは、一時的には儲って利益があったように思われるが、この利益は長く相場をやって居ればいずれは出て行ってしまい、結局は赤字になってしまう性質のものであり、それに取引の都度少額ではあるが取引税を納めているから所得税は課すべきでないと云う意見であり信念であった。

右は次の事実からも明白である。

被告人は第一審第二回公判の際次の趣旨のことを述べている。

自分は始めて相場をやった頃から店の人や客からきいて商品清算取引による利益は所得税の対象外だと思っていた。被告人が岡地株式会社豊橋出張所に勤めているとき、岡地の主人公が自己の商品取引で課税されたことをきいて豊橋出張所の客が税金がかかると云うことで動揺したので岡地の常務福富さんにきくと客には税金はかからんからドンドンやって貰えと指示された事実(証人福富敏夫はどう指示をしたか記憶なしと証言して居る)

(2) 糟谷仙一の事件に弁護士を推薦

岡地株式会社豊橋出張所の顧客である伊良湖ホテルの経営者糟谷仙一において多額の商品先物取引清算益が所轄税務署に発見課税されたとき被告人が右糟谷において争う気があるなら優秀な弁護士が大阪にいるから紹介してやる旨当時の右出張所長兵頭勇に話した事実があり証人兵頭勇の証言(同人の証人尋問調第一枚目裏四行から二枚目裏二行まで)もこれに符合している。

(3) 被告人方へ始めて渡辺、平野両大蔵事務官が調査に来たとき被告人は課税説を述べる。

昭和四四年九月八日被告人方へ浜松税務署の渡辺、平野両大蔵事務官が所得の調査にきたとき、この利益には所得税はかからない旨話して居り右両大蔵事務官も第一審においてこれに符合する証言をしている(証人渡辺貫吉の証人尋問調書四枚目裏一二行から五枚目表五行まで、及び証人平野雄二の証人尋問調書三枚目裏四行から同九行まで、四枚目表七行から九行まで及び同裏五行より五枚目七行まで)

(4) 右両大蔵事務官に被告人は洗いざらい見せている。

昭和四四年九月八日浜松税務署の渡辺、平野の両大蔵事務官が被告人方へ所得の調査にきたとき被告人は洗いざらい正直に見せて居るがこれは何を物語るか。

即ち被告人はそのとき昭和四三年以前のものは用が済んだから処理してしまい、手許にあっ昭和四四年になってから商品先物取引につき仲買店よりの売買報告書それは被告人の実名の分は勿論架空名義宛になっているものまで洗らいざらい見せている。この点は証人渡辺貫吉、同平野雄二の証言もこれを肯定している。

(尚このときの詳細な情況については第一審における被告人の最終陳述要旨第二編税務当局と交渉経過第一頁から四頁三行参照)

若し夫れ被告人にして所得税逋脱の意思があるならば、何時税務署員が調査に来てもよいように、書類を整理して、少くとも架空名儀の分は手許に置かない筈である。又そのように整理してないときは、尤もらしい口実の下に、今日は都合が悪いとか何とか云って、調査を断る筈である。それを唯々諾々として調査に応じて書類を見せ仲買店を教え、且入用とあれば仲買店に依頼して取引の内容を書面にして貰って提出してもよいとまで被告人は申しているのである。

右の事実は最も明白に被告人に所得税逋脱の意思なかりしことを証明して余りがありと思料する。

(5) 大蔵事務官竹市肇の被告人に対する質問てん末書は全部信憑力が無い。

被告人は商品先物取引による所謂利益は非課税なりと信じ、脱税の意思のない旨当初から陳弁しているのに、査察官はこれを聴いてやる雅量がなく殊に所得税逋脱の意思の有無は最初渡辺、平野の両大蔵事務官が被告人方へ調査に来たときそのことに対する被告人の応待で容易に看取し得るのにこの点に対し何等の考慮を払わなかった査察上の重大な手落ちがあったのに気付かず単なる否認弁解なりとして遮二無二無理な自白をさせたことは被告人に対する大蔵事務官竹市肇の昭和四五年五月六日附質問てん末書最後の問答に、

三、 問 これで質問を終りますが何か云われることは

答……清算益に対して課税されることを承知していたことは先回のご質問に対してお答えしたとおりですが、私は清算益に対する所得税法上の扱いについて自分なりの考えを持っており本日付で貴局長あてに「嘆願書」を提出しましたからご検討ください。

とあるにより明である。即ちこれまで数回に互る質問てん末書の問答中の答は被告人の本意でなく全部竹市大蔵事務官の考を被告人の答として同事務官が書いたに過ぎないのであって、被告人はタマリかねて自分の真意を書いた嘆願書を提出したのである。

同事務官のかかる作為的な調書は全部信憑力がない。そして本件はこの質問てん末書を中心にして、これに符合するように関係者の取調がなされたのであるから、そのことに関する書類も自然信憑力が問題になってくる。

例えば、

(イ) 垣見健吉に対する大蔵事務官の質問てん末書の「問」に対しこれ程迎合的な「答」は当弁護人の未だ曽て経験しないところである。

(ロ) 江間得二に対する大蔵事務官の質問てん末書記載の内容と同人が第一審で証人として証言した内容とが如何に相違していることか、余りにも甚しい。

又同人に対する検察官の供述調書中に「本名一本で云々」と申しているが、競争激甚の証券業界で「本名一本にて呉れ」などと申したらセールスは絶対に成立しないのに斯様な申立をしたことは実に不可思議千万である。

この嘆願書を提出するに至った経過につき被告人は当弁護人に次の通り説明している。

(イ) 昭和四五年二月二八日竹市大蔵事務官の被告人に対する調が済んでから、自分の非課税意見を調書に取上げてくれないので自分の非課税意見を取纒めて意見書とか所見とか云うようなものを提出して国税局の上層部に通じたいと思った。

(ロ) 昭和四五年三月一三、四日頃浜松税務署へ昭和四四年分の確定申告をした帰り始めて丸会計士に会い商品先物取引による所謂利益について自分の考を話したら丸会計士は株にかからないからあなたの場合は当然かからないでしようと云うので自分は力を得て書き始めた。

(ハ) 昭和四五年四月一六日調が済んだ直後、かねがね被告人はいくら自分の考を申上げても私の云うことを取上げて呉れないし、竹市大蔵事務官の調は予備的のものでいずれは竹市より上席の係官が本格的な調をしてくれるからその際本当のことを申上げようと云う気になり竹市大蔵事務官の調に対してはその云う通りになって調を進めて貰った処、四月一六日の調の結果ではどうも竹市大蔵事務官の調で調は一切済んでしまうだろうと云うように思われ、それでは大変と思い当時被告人の考を書き上げて丸会計士に見せた処これでは強すぎるお頼みしますますと云う形式で書いた方がよいと云われたのでそれまでに書いた下書を今度は柔らかく嘆願書の形式で書き上げた。

(ニ) 昭和四五年四月二七日竹市大蔵事務官に調の始まる前に私の舌たらず故に私の真意を諒解して貰えない処もあるので嘆願書を書いてあるから提出したいと云ったら、全部調が終ってから出してくれと云われたのでこのときの調は全く竹市大蔵事務官の云うがまゝにして調を済ました。後で嘆願書を出せば竹市大蔵事務官の調書などはフッ飛んでしまうから二月二八日のときのように争わず唯々諾々と調書をとって貰ったのである。

(ホ) 昭和四五年五月六日の前々日と思うが名古屋国税局より六日に出てきてくれとの電話があったので、いつでも出せるように日附は後で入れることにして清書しておいた嘆願書を五月六日出頭して竹市大蔵事務官の調が終るとき提出の理由を簡単にその質問てん末書の末尾に記入して貰って日附を打って嘆願書を提出した。

(ヘ) 嘆願書の要旨

私は商品先物取引による利益は非課税と信じて居たから申告もしなかったが当局において課税方針ならばこの種利益は長く相場をやって居ればいずれは失ってしまい、結局は損失になるのであり、現に私は四一年四二年の両年は運よく儲ったが四三年以降は巨額の損失となって居ります。

ついては右の事性御 察の上出来る限り多額の控除を認めて頂いて税金を安くして頂きたい。

(ト) 私は竹市大蔵事務官の上司においてこの嘆願書を読めば私が非課税意見であるため調をし直してくれると思って名古屋国税局長宛の嘆願書を提出したが残念ながら再調査は遂になかった。

(6) 嘆願書の証拠調請求却下さる。

右嘆願書は被告人において止むに止まれぬ心情で作成提出したものでこの事件の運命を左右するものであるから弁護人は控訴審において第一審検察官の手許に保管している名古屋国税局より送致の右嘆願書写につき証拠調の請求をしたが必要なしとて却下された。

参考のために右嘆願書写をこの上告趣意書の末尾に添付した。

(7) 二審判決は審理不画による事実認定の錯誤がある。

所得税逋脱の意思の有無の認定に最も重要な証拠である嘆願書につき証拠調をしないで第二審判決は逋税の意思を認定したことは正に審理不画による事実の認定に錯誤ありと云わざるを得ない。

(8) 被告人の非課税説を希望的意見にすぎずとするは不当

一審判決書第一二枚目裏二行から同五行までに「それはあくまでも被告人なりに考えた希望的意見にすぎず、税法上はこの所得も税務署に発見されれば課税されるという認識を持っていたことは明である」との説示について、

既述の通り被告人は一般顧客の差金決済による利得を目的として行われる商品先物取引による利益(所得)については、長く相場をやって居れば、この利益はやがては失ってしまって、損失になることは厳たる事実であるから、この事実を捉えて被告人はこれには課税すべきでないという信念を持っていた。決して希望的意見の程度のものではない。嘆願書まで提出して自分の真意、即ち非課税を聴いて貰おうと決意しているこの被告人の気持を、第二審は何を根拠にして希望的意見にすぎずと断定するのか。その根拠とするところは判決書第一〇枚目裏最後の行から第一二枚目表一〇行までに記載してある事実であるがこの事実について注意すべきは、

(イ) 糟谷仙一に対する課税事例の認識の点である。

被告人はこの課絶は不当違法な課税であると解して居り決してこの課税を正当なりとは思料していなかった。

(ロ) 土井商事株式会社浜松支店に対し云々の点

その社員垣見健吉に対する大蔵事務官の質問てん末書は既述の通り信憑力に問題があって採用できない。

尤も被告人は非課税であるから税務署に判れば理論上は非課税意見を説明すれば逋脱の点は諒解して貰えるだろうと思っていたが実際問題としては斯様なことで税務署とカカリアヒを持ちたくないところから、その意味のことを申した処垣見健吉は課税意見のため、これを恰も逋脱の意志ありとして査察官に述べたものと思料される。

尚講演料については被告人が第一審の第二回公判において述べている通り垣見のため、やってやったことがその逆効果になったもので逋脱のためにしたものではない。

(ハ) 日本勧業角丸証券株式会社浜松支店の営業係江間得二につき、

同人は前記の通りその供述は信用できない。

(9) 二審判決書の説示の程度では逋脱の意思は認められない。

判決書第一二枚目裏六行から同一〇行までにあげている。

(イ) 被告人の大蔵事務官竹市肇に対する昭和四五年二月二八日付質問てん末書

右てん末書は前記の通り信憑力がない。

(ロ) 被告人の検察官に対する昭和四五月一二月二二日付供述調書

(ハ) 鈴木忠夫の検察官に対する供述調書

右(ロ)、(ハ)については何処にも被告人に逋脱の意思を認むるに足る記載がない。

判決書第一〇枚目裏第一一行から第一二枚目裏五行までに記載してあるところと右(ロ)、(ハ)の調書を綜合しても到底被告人の逋脱の意思を認むることはできない。

尚鈴木忠夫の調書にはその最終のところに「………資金の出所を税務署に追及されるのを防止する面と相場を張ってもうかった場合にこれに対する課税をされるのを防止する面と二の両面の意味がありましたと供述しているがこれは同人の考で被告人の関知するところではない。

二、 不正行為について

(1) 被告人の本名と架空名儀(仮名)を併用被告人は相場取引の作戦上、本名のほか架空名義(仮名)を併用した。右は相場取引の作戦上併用した以外何ものでもない。

然るに第二審判決はその判決書第一三枚目表五行、六行において「同時に所得税逋脱の手段として委託者をまぎらわしくするためであった」と認定している。

凡そ相場上架空名義(仮名)を使用するには相場上の責任を明にしておく必要上必ず取引店(仲買人)に架空名義(仮名)を届出た上、使用することになっている。

従って税務署から例えば小幡万夫の取引を架空名義(仮名)を含めて全部報告してくれとの要請あれば架空名義(仮名)の分を含めて全部取引店(仲買人)は報告する故、委託者をまぎらわしくするようなことはない。况して被告人は非課税説であるから逋脱の意思もなく従ってまぎらわしくする必要もない。右認定は明に誤りである。

(2) 清算益の処分に架空名義を使用

清算益金四、四七六万円余りの大部分を架空名義の預金あるいは無記名の証券等にかえたのは相場に破れたときに再起する財産保全のためにしたものにほかならない。被告人は既述の通り、非課税説で逋脱の意思はなく絶金対策として秘匿する必要もない。

然るに第二審判決はその判決書第三枚目表九行一〇行において「同時に税金対策として所得を秘匿するためであった」と認定しているが右は誤認も甚しい。

架空名義の定期預金につき次のような事実がある。

即ち被告人は住友銀行豊橋支店に荻野茂和他一九名の架空名義の定期預金合計一千万円を被告人と家族の名義に書替えたがその後又これを今川理一他九名の架空名義に書替えた事実があるのでこれについて第一審第三回公判において弁護人と被告人との間において次の問答が交わされている。

(第一審第三回公判調書被告人の供述第一枚目裏一三行から第二枚目表一二行まで)

住友銀行銀橋支店へ二〇名の仮名を使って預金していた一、〇〇〇万円の預金を被告人の名前と家族の名前に書替えたのはどうしてですか。

それは昭和四一年四二年ともうかってきましたので私の資産からしましてその預金を仮名にしておくことはないと思い表に出したのです。

ところがその預金を再び昭和四四年一二月に仮名にしたのはどうしてですか。

それは税金をとられましたのでこれは危険だと思い対策上名前を地下へもぐらせたのです。それと今一つ昭和四四年の末には取引の損失が八〇〇万円ぐらいになりましたので、これは仮名にした方がよいと思ったからです。

査察官や検察官は架空名義の預金が陰匿にあたりそれが偽りその他不正の行為に該当すると主張するのであるから仮令右一千万円の所得は税法上五年の時効にかかっていても

架空名義→実名(本名)―架空名義

と変化ししかも二度目に架空名義にしたのは昭和四四年一二月三日被告人が確定申告を済ましこれに基づき所得税も被告人の第一審における最終陳述要旨第二編二五頁四行の記載によれば昭和四四年一二月一三日と同月二〇日の二回に合計九、九四〇、〇〇〇円完納したので税金問題の本筋もこれまで一応片付きあとは延滞絶位でホッとした気分でいた昭和四四年一二月二二日であるから逋脱のためではなく温存のためとしか思われない。

査察官や検察官がこの二度目の架空名義にした点につきその理由を尋ねなかったことは不可解千万である。

第三、 結論

以上の通り本件は法律点から論ずれば本件所得は所得税法上の所得に該当せず、又雑所得については過失を処罰とした違法があり次に事実論からしても審理不尽の点があり、逋脱の意思は到底認め難く、不正行為と同すべきものはない。

仍て第二審判決を破棄して差戻すか、無罪の判決をしなければ著しく正義に反するものと思料する。

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